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広野(近代)


 明治22年~昭和30年の阿野村の大字名。明治24年の戸数526・人口3,060(男1,551・女1,509),厩41,寺1,学校2,船7(徴発物件一覧表)。同25年広野簡易小学校は広野尋常小学校と改称。同29年の戸数527・人口3,105,字別戸数は行者野37・歯の辻32・長谷28・下地12・方子26・臼岳16・馬喰草8・広野18・雨返4・名田河10・椚野11・大地29・河口9・五反地32・田の窪14・中峰10・杉次郎8・北倉目9・南倉目26・折木20・持部25・峰長瀬9・長瀬36・地野々14・橘谷16・馬地19・須賀12・北養瀬19・南養瀬18(阿野村誌)。明治34年名西山分線道路(上山街道)が開通。大正4年童学寺トンネルおよび阿野石井線が難工事の末に開通し,石井町方面と連絡する。昭和3年阿野橋,同16年に行者野橋が架設。持部鉱山は明治27年に採鉱が本格化され,同37年の採鉱量は70万貫に達した。その後機械化も進み,明治43年に久原鉱業株式会社が買収,同45年には阿川の広石鉱山と合わせて採鉱量55.9万貫,ほかに沈澱銅3.8万貫余を産出。最盛期には鉱夫80人・人夫120人を数え,鉱夫長屋20棟が建ち並ぶなど活況を呈した。明治40年には広野小学校持部分教場も開設された。その後昭和期に入り日本鉱業株式会社が買収,従業員も200余人を擁したが,第2次大戦の激烈化にともない経営不振となり衰退(名西郡誌・阿野村誌)。明治期~大正期の産業は,主穀生産のほかに養蚕・製茶や葉藍,木炭などの生産も行われた。大正6年阿野村是製糸会社が地元の有志により設立され,同11年には男工15・女工80,製糸高4,410貫を示すが,大正末年に閉鎖(阿野村誌)。昭和23年に開校した県立名西高校広野分校は,のち徳島農業高校分校となり,同47年閉校。昭和30年神山町阿野となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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