阿野郡

はじめ当郡の北は北条郡,南は南条郡とも呼ばれ,江戸期は貞享元年から北条郡と呼ばれた地域を阿野郡北,南条郡と呼ばれた地域を阿野郡南と当郡を二分した呼称も用いられた。なお,幕府は阿野郡として把握していた。当郡は天正13年仙石秀久,同15年尾藤知宣,ついで同年生駒親正(讃岐国15万石)が支配した。親正ははじめ東端の大内【おおち】郡の引田城に入り,さらに鵜足郡の聖通寺城に移ったが手狭なため,翌16年に香東郡(のち香川郡東)野(箆)原荘の海浜に築城して高松城と称した。のち慶長2年に西讃岐統治のため仲郡(のち那珂郡)亀山に丸亀城を築いたが,元和元年の一国一城令により廃城となった。生駒氏は4代高俊の寛永17年生駒騒動により所領を没収されて,出羽国矢島1万石へ転封された。これ以後2年間当郡は伊予今治藩主松平定房の預り地となったが,寛永19年に松平頼重が東讃岐12万石の高松藩主となって高松城に拠り,以後明治維新まで11代にわたって,大内・寒川【さんがわ】・三木・山田・香東(香川郡東)・香西(香川郡西)・鵜足(1か村を除く)の各郡と仲郡のうち17か村および当郡を支配した。松平頼重は御三家の水戸家の出であり,家門大名として中国・四国の大名の監視の任を内命されていたという。当郡の総石高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」では南条郡1万6,452石余・北条郡7,854石余,「寛文朱印留」1万7,639石余(阿野郡南1万2,379石余・阿野郡北5,260石余)で村数35(阿野郡南22・阿野郡北13),延享3年は阿野郡南2万660石余・阿野郡北8,582石余(御巡見御答書),文化12年は阿野郡南2万1,750石余・阿野郡北9,409石余(丸岡文書),「天保郷帳」2万9,495石余(阿野郡南2万499石余・阿野郡北8,995石余)で村数35,「旧高旧領」3万1,576石余(阿野郡南2万879石余・阿野郡北1万697石余)で村数36(阿野郡南22・阿野郡北14)。寛永19年の阿野郡南の小物成は真綿9貫5匁余・茶代米2石余・炭204石・枌568荷360枚,阿野郡北の小物成は真綿4貫108匁余・塩283石余(うち坂出新浜97石余・坂出内浜86石余・坂出北浜61石余・坂出宗徳浜25石)・塩運上(江尻村)銀80匁・漆代銀1匁余。阿野郡北の塩浜は天明7年御供所浜5町余が築かれ,文政12年には久米栄左衛門によって4年の歳月をかけて東大浜55町余・西大浜46町余が完成した。その規模は全国有数であり,赤穂式と三田尻式の長所を合わせ,排水溝の設備や海水注入口の構造などに工夫をこらした独特の久米式塩田である(塩業組合沿革史資料)。その塩田釜家数70,1年の産塩約30万俵で,これからの諸上納金1,800両余,畑97町余でこの貢米397石余,1か年総収納高は平均3,000両でこのうち1,000両は1年間の諸経費に充て,残りの2,000両が益金であった。そして坂出村にはこの東大浜・西大浜の完成によって各地から多くの人が移住し,繁盛の地となった(増補高松藩記)。幕末から明治期にかけては御供所浜5町余,松ケ浦浜15町余,坂出古浜18町余,王越浜19町余,坂出新浜109町余(愛媛県統計書)。「天保郷帳」によると当郡の村は,御供所村・坂出村・福江村・江尻村・西庄村・乃生【のう】村・木沢村・林田村・氏部村・鴨村・神谷村・高屋村・青海村(以上,阿野郡北)・新居村・福家村・柏原村・国分村・新名村・山田下村・山田上村・東分村・西分村・千疋村・牛川村・羽床下村・小野村・萱原村・北村・滝宮村・羽床上村・枌所【そぎしよ】村・川東村・府中村・陶村・畑田村(以上,阿野郡南)の35か村。天保9年頃の阿野郡北の石高は8,930石余,反別936町余,うち田は7,196石余で670町余,この取米4,139石,畑は1,733石余で265町余,この取米620石余,取米合計4,760石余,年貢率は5割3分3厘,家数3,617・人数1万3,620(男7,216・女6,404),牛1,465,馬86,塩釜屋126,塩浜反別139町余,年間塩生産高5斗2升俵で18万380俵(御巡見一件録)。阿野郡北の溜池数は天保9年が60か所で主なものとして鎌田池がある。同池は上池と下池から成り,その築造年ははっきりしないが,上池は久米栄左衛門の掛井手掘削工事によって水を湛えるようになった(讃岐のため池)。阿野郡南の溜池としては矢延平六によって阿野郡北の地域への配水のために築造された北条池,はじめ錆田池といわれ明和年間頃に一度築かれたが安永元年に決壊し,のち文政12年に修築工事に着手し,人夫延9万9,800人を動員して2年後の天保2年に完成した永富池,創築は戦国期終わりの天文年間といい承応3年に増築して完成した大谷池などがある。また水に関連して当郡で著名なものに萱原用水がある。滝宮・陶地域は地勢が高く,灌漑用水を確保することができなかったため,元禄9年に萱原村庄屋久保太郎右衛門は,綾川から導水して鞍掛山一帯の大羽茂池・山下池など大小30余の溜池に水を注ぐことを計画し,その普請工事を願い出た。しかし藩は山田村で取水して14kmの掛井手で導水するという太郎右衛門の計画は高低の少ない地形のため技術的に無理と判断したが,彼はあきらめずに請願し続けたため,一時投獄されたこともあった。宝永4年ついに普請工事の許可がおり,太郎右衛門は工事竣工3年後に他界したが,大羽茂池畔に水神として祀られた(同前)。天保10年石見国浜田湊の廻船問屋但馬屋のもとに坂出の住吉丸が大塩俵を積んで行っていることに知られるように(諸国御客船帳),坂出浦には塩の積込みなどに多くの廻船が出入りしたと思われる。天保9年の阿野郡北の商船は175艘であった。この中には林田浦・江尻浦などの砂糖船も多く含まれているのであろう。また猟船は17艘,網21帖,漁師32人であった(御巡見一件録)。高松藩は近世後期には砂糖の一大特産地となった。寛政元年に砂糖の製造に成功し,同6年には砂糖製造の奨励を行っており,また領外売りさばきの座本に高松城下の香川屋を任じている(大山文書)。以後高松藩内では白砂糖をはじめとして下白地・焚込・蜜などの砂糖の生産が盛んとなり,砂糖の原料の甘蔗(砂糖黍)の植付面積は天保5年1,120町余,弘化元年1,750町余,安政3年3,220町余,慶応元年3,807町余と増えていった(讃岐糖業之沿革)。阿野郡北では文化2年から医者道順によって砂糖製造が広められ,5,6年後には郡中で砂糖作りが盛んになっている。天保6年に高松藩は領内9か所に砂糖会所を置き,砂糖為替金貸付けなどの砂糖の生産・流通の本格的な統制を実施したが,この時坂出浦と林田浦に砂糖会所が置かれた。天保8年の甘蔗植付面積は240町余であるが,これは1位の大内郡,2位の寒川郡についでおり,この植付面積のうち阿野郡北が多くを占めていたと思われ,高松藩内での砂糖の重要な生産地帯であった。安政3年に林田浦から積み出した砂糖は5万3,925挺で,そのうち大坂積が3万5,670挺,大坂以外の領外へは1万5,849挺となっている(渡辺文書)。また丸亀藩領ほどではないが高松藩領でも綿の栽培が行われており,寛政8年には隣郡の鵜足郡の宇多津村に木綿所,同11年頃に綿会所が置かれており,特に高松藩領の西部で盛んであった。阿野郡北では文政7年に30町余に綿が植え付けられており,そのうち主なものは御供所村14町余,坂出村4町余,林田村3町余,青海新開3町余であった(同前)。また,阿野郡南では山田・枌所などの地域で甘蔗栽培が盛んに行われ,畑田村にはカセ屋(綿糸を紡いで糸にして綛にかけたものを綛糸という)の集落名が残る(綾南町史)。天保5年宇多(足)津村で農民が蜂起し,米問屋などの富商宅7軒を打ちこわした。これは天保年間初めの飢饉により米不足が宇多津地域でも深刻になったためであるが,米不足は宇多津村だけの問題ではなく,隣接する坂出村も同様の状況におかれていた。宇多津村の一揆から2日後に坂出村でも一揆が起こった。はじめ200名であった一揆勢はその後増えていき,銀1匁につき米1升売りを要求し,米屋伝次右衛門の新地の出店のほか,商家2軒・出店2軒・大庄屋宅1軒・番所役人宅1軒を打ちこわした。坂出村に隣接する林田村でも不穏な動きがあった。この一揆ははじめに新開の者が天神堂に集まったといわれる。文政12年の坂出塩田完成に伴い製塩業者が住んでいたのが新開であり,おそらく製塩業者の中でも最雇層の日雇層がまず蜂起し,これに坂出村の貧農層が加わったのであろう。高松藩は一揆の首謀者を捕らえ,1名を磔,5名を梟首に処した。のち那珂郡の金毘羅大権現領や幕府領の池御領榎井【えない】村などに飛火した。天保8年創建の常盤神社は一揆で死罪になった者を祀っているという。高松から金毘羅大権現に向かう金毘羅街道が阿野郡南の内陸部を東西に通る。天保9年頃の阿野郡北の寺院14,神社33,生駒親正から60石を寄付され,寛文6年60石の加増を得て寺領120石を有する白峰寺がある。阿野郡南には高松藩から50石を与えられた鷲峰寺,生駒一正から13石を与えられ,生駒高俊から50石余を加増されて寺領63石余となった四国霊場八十八か所第80番札所の国分寺,生駒一正が再興して27石余を与えた竜灯院などがある。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7428989 |





