池戸(近代)

明治23年~現在の大字名。はじめ平井村,大正8年平井町,昭和29年からは三木町の大字。明治24年の戸数462・人口2,460(男1,244・女1,216),幅員東西14町・南北1里18町,倉庫26,寺院2,学校1,水車場1(徴発物件一覧)。明治25年平井小学校池戸分校が設置され,大正2年平木字草田に校舎が新築されて本校に合併移転するまで存続。明治31年讃陽堂病院内に院長松原朋三が准看護学院を開設。同32年三木郡・山田郡が合併し木田郡となり,郡役所ははじめ西徳寺内に置かれたが,大正8年にその東方へ新築移転。同15年郡役所は廃され,大正期建築様式を残す建物は公会堂となり,昭和4年県蚕業試験場となる。明治31年讃陽堂病院長松原朋三開設の讃陽堂内准看護学院は明治36年木田郡立,大正12年に木田郡医師会立となる。明治36年木田郡立農学校が池戸八幡宮社務所を仮校舎として発足。同39年県立農林学校となり,同42年新校舎を現香川大学農学部の地に建て移転。大正11年県立木田農業学校と改称。明治32年讃岐貯蓄銀行平井出張所が置かれ,大正4年高松銀行に合併,同行平井支店となり,同13年高松百十四銀行と合併して高松百十四銀行平井支店となる。明治33年平木郵便局が当地に移転し,池戸郵便局となり,同34年電信事務を,大正11年に電話事務を開始。明治40年木田郡役所に県米穀検査所木田支所が置かれ,同45年麦類の検査開始により県穀物検査所木田支所となる。同年高松電気軌道(現高松琴平電鉄長尾線)が高松出晴~長尾間に開通し,池戸駅と農学校前の2駅を設置。大正初期,高松電気軌道は軌道沿線への電灯・電力供給権を得て池戸方面へも約400灯程度日没から日の出まで送電されるようになり,新時代の到来を告げた。農業では明治中期に平井町長串田太市が串田式正条植え器(田植え定木)を発明し,田の正条植えが急速に普及し,これに伴って除草にも田打ち車,次いで舟形除草器が使われるようになった。明治27年字鍋淵の丘陵地でモモが植え付けられ(三木町果樹園の最初となる),花見場所の少なかった当時近郷近在はもとより遠く高松方面からも花見客があった。モモの栽培は昭和初期までほとんど進展しなかったが,第2次大戦後は急速に進歩しつつある。明治36年木田農学校が創立されたときホルスタイン種の乳牛が初めて導入されたが,第2次大戦後本格的に酪農が始まり昭和24年木田郡東部酪農販売農業協同組合が結成された。大正5年頃家畜市場(通称牛市)が開場し,滝宮・琴平の市場とともに県下三大市場の1つとなる。大正元年木田農学校に養蚕別科を設置,養蚕業が奨励され,第1次世界大戦後から昭和初期の間に養蚕所得は米麦をはるかに上回るようになる。昭和3年木田郡生糸信用販売利用組合が設立され,数百の釜をもって輸出生糸の製造販売を行うようになるが,同4年の世界的大不況以来漸次減退し,今日昔日の面影はない。同5年県蚕業試験場が高松から木田郡役所跡へ移転設置され,同11年県繭検定所,同31年中讃蚕業技術指導所を併置。同32年蚕業試験場は農業試験場三木分場となり,同55年繭検定所とともに長尾街道より南の現在地に移転。蚕業技術指導所は県庁内へ移転。同24年県蚕業試験場内に木田地区農業改良普及事務所が置かれ,同33年三木農業改良普及事務所と改称し,農業の指導に当たったが,同43年高松市仏生山町の高松農業改良普及事務所に合併され廃止。養蚕に代わって戦後葉煙草の栽培が盛んとなり,昭和29年収納所が設けられ,農村部の各地に乾燥室が建てられたが,今日では共同乾燥場が設けられ,独特な乾燥室の建物も姿を消していきつつある。当地は水不足に悩まされ,特に昭和14年の旱魃はひどく,農家のうち170戸余が竹と小麦わらで巨大な竜を作り,白山の頂上で雨乞を行った。白山山頂の大岩の穴は志度の浦へ抜けているという伝説があり,それが竜神信仰と結びついたものと思われる。立石山山頂でも雨乞が行われた。その後,昭和50年の香川用水の通水により水不足は解消。昭和23年県平井保健所を設置,同39年三木保健所と改称され,三木町保健指導の中心となる。昭和29年三木町消防団が発足し,池戸は第1分団平井の第2部に編成される(三木町史)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7429041 |





