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井戸村(近代)


 明治23年~昭和31年の自治体名。はじめ三木郡,明治32年からは木田郡に所属。大字は編成せず。役場を字公文明の現在の井戸出張所に設置。明治24年の戸数933・人口4,054(男2,041・女2,013),幅員東西20町・南北2里,官舎1(村役場),倉庫19,馬4,寺4,学校1,水車場2(徴発物件一覧)。同25年字公文明の現在農村公園になっている所に新たに井戸村立井戸尋常小学校が落成し,下高岡村から就学する生徒を帰し,当村一円をもって1学区域とする。大正3年高等科を併置し,井戸尋常高等小学校となる。明治26年成瀬岩太郎は50人繰り機械製糸を始め連年盛況を極めるが,産繭額が奨励の割合に増加せず,県外から買繭をするが,原料不足のため,同30年に中止。明治27年讃岐地方は4月26日から9月10日頃まで約135日間雨らしい雨がなく,大日照りとなり,産米は半減した(県統計書)。それに加えて砂糖黍の栽培が減少して水田に転換されたため用水の需要はますます増加する。このような切実な要求を背景に同41年二股池のかさ上げ工事が着工され,翌42年に完成。当時は補助金がなく,反当たり10円余りを要し,その支払いには大変苦労したといわれる。当時は米1石が約13円であったから,かなり重い負担であった。これによって二股池(上池)の堤の高さは2m増,貯水量も1.5倍の60万m[sup]3[/sup]と増加し,現在の規模の溜池となる。井戸にはこのほか下池・国下池・熊田池・鍛冶池などがある。しかし水不足は解消せず,地主水といって耕作権とは別に水利権だけが売買され,1分水が米4升の割合で取引きされた。真行寺山・南山田の山の神は井戸村の雨乞の場所である。明治36年頃民間としては三木町域で初めての乳牛飼育が溝淵平八の牧場で始まる。明治45年高松電気軌道(現高松琴平電鉄長尾線)が高松出晴~長尾間に電車を開通し,井戸と公文明の駅を設置。大正のはじめ高松電気軌道は電気を軌道沿線に供給する権利を得て,当村へも送電された。その後次第に周辺山間部へと広がる。大正4年公文明消防組が役場前に,大正7年高木消防組が浄土寺横に設けられた。同9年の世帯数806・人口3,865(男1,901・女1,964)。職業別人口は農業1,480,水産業9,工業178,商業115,交通業11,公務・自由業86,その他の有業者13,無職27。昭和5年の人口3,929(男1,942・女1,987)。同10年の世帯数782・人口3,827(男1,871・女1,956)。同25年の世帯数966・人口5,193,職業別人口は農業1,655,林業・伐木業2,鉱業1,建設業104,製造業218,卸売・小売業164,金融・不動産業14,運輸・通信62,サービス業168,公務60。昭和16年井戸尋常高等小学校は井戸国民学校,同22年井戸小学校と改称。同年井戸中学校開設。同25年の農地改革では田338町余・畑53町余のうち田180町余・畑23町余が解放される(農地買収実績表)。農業はその後米麦以外に養鶏,養豚が盛んとなり,昭和26年数百羽規模の養鶏が始まる(三木町史)。昭和31年三木町井戸となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7429071