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香川郡


はじめ当郡の東は香東郡,西は香西郡とも呼ばれ,貞享元年~明治5年は香東郡と呼ばれた地域を香川郡東,香西郡と呼ばれた地域を香川郡西と当郡を二分した呼称が用いられた。なお,幕府は香川郡1郡として把握していた。当郡は天正13年仙石秀久,同15年尾藤知宣,ついで同年生駒親正(讃岐国15万石)が支配した。親正ははじめ讃岐東端の大内【おおち】郡引田城に入り,さらに鵜足【うた】郡聖通寺城へ移ったが手狭なため,新城建設を計画し,翌16年に当郡(香川郡東)野(箆)原荘の海浜に築城し高松城と称した。のち慶長2年に西讃岐統治のために仲郡(のち那珂郡)の亀山に丸亀城を築いたが,元和元年の一国一城令により廃城となった。高松城は水城として著名で,北が海に面し,内濠・中濠・外濠の三重の濠をめぐらしており南に城下町が形成された。寛永4年頃の高松城下町の規模は東西9~10町,南北6町ほどで,町方人数は800~900であった(讃岐探索書)。また寛永17年頃は西の外濠は西浜舟入といわれ藩船の出入港で近くに船倉があり,東の外濠は東浜舟入で諸商船の出入港であった。中濠と外濠の間に重臣屋敷,外濠から西に侍屋敷があり,外濠の南に丸亀町・片原町・百間町・大工町・小人町・兵庫町・新町・磨屋町・紺屋町・鍛冶屋町などの諸商人・諸職人の町があった(讃岐高松城屋敷割)。近世のはじめまで香東川は当郡の大野から二手に分かれ,1つは一宮・坂田を経て石清尾山の東を通って高松城下へ流れ込み,もう1つは今のように石清尾山の西を通っていたが,寛永年間中頃に西島八兵衛が東の流れをせき止めて西の流れだけにしたといわれ,香東川の氾濫にさらされていた高松城下はこれによって一層発展した。その後高松城下は南東部に町家が広がっていった。生駒氏は4代高俊の寛永17年の生駒騒動により所領を没収されて,出羽国矢島1万石へ転封された。これ以後2年間当郡は伊予国西条藩主一柳直重の預り地となったが,寛永19年に松平頼重が東讃岐12万石の高松藩主となって高松城に拠り,以後明治維新まで11代にわたって,大内・寒川【さんがわ】・三木・山田・南条(のち阿野郡南)・北条(のち阿野郡北)・鵜足(1か村を除く)の各郡と仲郡のうち17か村および当郡を支配した。松平頼重は御三家の水戸家の出であり,家門大名として中国・四国の大名の監視の任を内命されていたという。当郡の総石高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」では香東郡1万7,044石余・香西郡1万4,307石余,「寛文朱印留」2万552石余(香川郡東1万7,044石余・香川郡西7,996石余)で村数47(香川郡東29・香川郡西18),延享3年は香川郡東1万9,886石余・香川郡西1万6,497石余(御巡見御答書),文化12年は香川郡東2万970石余・香川郡西1万6,540石余(丸岡文書),「天保郷帳」3万7,302石余(香川郡東2万645石余・香川郡西1万6,657石余)で村数47(香川郡東30・香川郡西17),「旧高旧領」4万353石余で村数50(香川郡東33・香川郡西17)。当郡の朱印寺領には法然寺領(百相村)と興正寺領(御坊領とも称す,福岡村)がある。「元禄郷帳」の村数は47(香川郡東30・香川郡西17)。香川郡東の寛永19年の小物成は,真綿2貫444匁余・漆代銀21匁・茶代米1石余・枌496荷480枚・塩1,361俵余(うち西浜876俵余・東浜445俵余・東浜新浜39俵余)・東浜新浜塩運上銀43匁(塩浜3反3畝)。香川郡西の寛永19年の小物成は真綿302匁・御菜代米60石・塩356石余(うち笠居村266石余・飯田新浜13石余・飯田浦48石余・飯田鶴市27石余)。この塩納入高は讃岐国の他郡に比較して最も多く,特に香川郡東に当たる地域は讃岐で最も製塩の盛んな地域であった。西浜・東浜のその後の塩浜の様子は明らかではないが,元禄元年福岡村の古浜18町余,慶応2年同じく新浜17町余が築かれている(塩業組合沿革史資料)。なお,明治初期には西浜に松本浜8町余があった(愛媛県統計書)。生島塩田(香川郡西)は天明8年着工,人夫延10万6,219人を動員し,2年後の寛政2年に30町余・釜数23の塩浜となり(塩業組合沿革史資料),明治初期には35町余になっている(愛媛県統計書)。「天保郷帳」によると当郡の村名は,西浜村・宮脇村・中村・上村・東浜村・福岡村・今里村・松縄村・太田村・伏石村・下多肥村・上多肥村・出作村・百相村・一宮村・鹿角村・三名村・寺井村・大野村・浅野村・川東村・岡村・由佐村・横井村・吉光村・池内村・西庄村・川内原村・東谷村・安原村(以上,香川郡東)・飯田村・郷東村・鶴市村・檀紙村・中間村・山崎村・岡本村・御厩【みまや】村・笠居村・円座村・河(川)部村・成相村・勅使村・馬場村・沖村・土居(坂田)村・万蔵村(以上,香川郡西)。天保年間頃の香川郡西の人数は1万8,950人(丸岡文書)。香川郡西の文政4年の古田畑1万5,178石余(田1万3,383石余・畑1,794石余),新開田畑1,438石余(田1,189石余・畑249石余)で,計1万6,617石余(田1万4,573石余・畑2,043石余)である(小比賀文書)。天保9年の香川郡東の高松藩領下の人口2万9,068,ほかに法然寺仏生山領1,353,興正寺御坊領349(丸岡文書)。香川郡東の溜池の数は宝暦5年298で,そのうち安原下村の76が最も多く,次いで東谷村の54となっており(松浦文書),その後天保9年には池数は306と増えている(丸岡文書)。主な溜池としては,古くからあった合子池を寛永・正保年間頃に増築したといわれる音谷池,寛永4年に西島八兵衛によって築かれたという竜満池(古くは大野池・北田井池とも呼んだ),人柱伝承をもち7年の歳月を費やして完成したという小田池,延宝元年に完成して宝暦5年頃寺井・一宮・三名・鹿角4か村1,710石余と法然寺領の水掛りであった船岡池,寛文年間頃に矢延平六によって築かれ,ひょうげ祭りで知られる新池,平安末期に人柱によって築かれたという伝承をもつ平池などがある。香川郡西の衣掛【こかけ】池は,生駒親正の時に高松城下の要害として築いたものとも,また,寛永年間頃西島八兵衛が築いたものともいわれ,水面面積15町余,灌漑地域74町余であり,また寛文10年に不成【ならず】と呼ばれていた地に築かれ讃岐で4番目の規模をもつ奈良須池がある(讃岐のため池)。高松城が海浜に築城されたところから,高松城下町は湊としての性格をも有した。享和元年に高松藩は藩札の貸付けを大々的に行い,積極的な財政政策をとった。これを享和の新法という。この藩札の貸付けは領内の殖産奨励にも多く行われ,この結果国産品の領外への積出しを盛んにするために,商船の停泊地で諸商品の取引地であった東浜港の先端部を埋め立てて,湊を拡大した。そしてそこを新湊町と名づけその年寄に鳥屋仁左衛門がなった。また石見国浜田湊の廻船問屋但馬屋のもとに,寛政から安政年間にかけての約60年間に入港した高松城下の船は12艘となっている(諸国御客船帳)。一方,高松城下西の西浜では漁業が盛んであった。当郡の香西浦には年寄が置かれ,特に漁業が盛んであり,漁場をめぐっての争いが何度か起こっている。寛文6年香西漁民と備前国下津井漁民とが争い,延宝2年には小瀬居島での鰆・鯛漁場をめぐって香西浦漁民と塩飽【しわく】漁民との間で争いがあった。そして享保16年に備前の児島郡の日比・利生・渋川3か村の漁民と香西浦漁民の間で大曽ノ瀬の鰆網漁場をめぐって争いが起こり,結局幕府への訴訟となり,幕府の役人が実地に検証した結果,香西浦の主張が認められて大槌島の中央より半分北側の線が日比村漁民らの漁場となった。また讃岐で一番大きな漁場争いとなったのが,幕府の塩飽領の小瀬居島の東にある金手漁場をめぐっての塩飽漁民と高松藩領漁民(特に香西漁民)との争いである。金手漁場は高松藩領と塩飽領の境界が近くにあり,鯛・鰆の豊富な漁場であることから,以前からよく紛争が起こっていたが,元文4年に高松藩はこの漁場は高松藩領であるとして幕府へ訴えた。この結果数回の評定を経て金手漁場は高松藩領であることに決したが,鰆網は入会漁場として両方が隔日に入漁することになり,2年後の寛保元年に幕府の裁決書が下された。この裁決書には当時の寺社奉行大岡越前守忠相の名があることでも著名である。享保17年の香西浦の漁師は363軒・1,588人で鯛網4帖,地漕鯛網1帖,鰆網11帖,中高網2帖,地引網2帖,いかなご網2帖,ころかし網3帖,手繰網5帖,せい立網5帖,たなご網3帖,蛸縄17があり,漁船は大小40艘であった(香西漁業史・讃岐の歴史)。幕末には砂糖の一大特産地となった高松藩では,寛政元年砂糖の製造に成功,同6年砂糖製造の奨励を行っており,また領外売りさばきの座本に高松城下の香川屋茂九郎を任じている(大山文書)。以後高松藩内では白砂糖をはじめとする白下地・焚込・蜜などの砂糖の生産が盛んとなり,砂糖の原料の甘蔗(砂糖黍)の植付面積は天保5年1,120町余,弘化元年1,750町余,安政3年3,220町余,慶応元年3,807町余と増えていった(讃岐糖業之沿革)。文政3年香川郡西の甘蔗植付面積は10町余で他郡に比べると多くはないが,内訳は笠居村1町7反余・郷東村1反余・鶴市村6反余・御厩村1町4反余・中間村1反余・山崎村8反余・岡本村8反余・川部村1町余・成合村1町余・勅使村7反余・馬場村4反余・万蔵村2反余,砂糖生産高は4万1,619斤(うち白砂糖9,372斤・白下地2万5,759斤・蜜6,488斤)で,その積出先は大坂へ1万2,173斤,高松藩内へ2万4,819斤,高松城下へ2,358斤,備前岡山へ2,295斤(小比賀文書)。天保8年の香川郡全体の甘蔗植付面積は176町余であるが(渡辺文書),そのほとんどが香川郡東に属していたと思われる。天保6年に高松藩は領内9か所に砂糖会所を置き,砂糖為替金貸付などの砂糖の生産・流通の本格的な統制を実施したが,この時当郡では香西浦と高松城下川口に砂糖会所が置かれ,城下では塩屋町の三木屋孫四郎が会所引請人となった。のち元治元年には城下に2か所置かれており,百間町の坂本屋松太郎と丸亀町の津国屋忠五郎が会所引請人となっている。丸亀藩ほどではないが高松藩でも近世中期以降綿の栽培が盛んになった。延享4年に高松藩は城下西通町の商人柏野屋市兵衛の申請を入れて綿に運上銀を課したが,翌寛延元年にこれに反対する那珂郡・鵜足郡の農民3,000~4,000人が高松城下の柏野屋宅へ押しかけ,運上銀徴収の代わりに綿植付けのための肥料代の借用を要求し,結局柏野屋宅を打ちこわすという事件が起こった。これに対し高松藩は綿運上の賦課を廃止した(増補高松藩記)。翌寛延2年には高松藩領東部の農民2,000人余が,生活困窮を訴えて高松城下へ押しかけ,南新町の倉屋久五郎・明石屋忠左衛門・秋田屋彦十郎,西通町の柏野屋市兵衛・品川屋庄太郎・川崎屋吉兵衛,塩屋町の金川屋太助らの商人へ救済を要求した。これに対して藩は救米3,500石の支給や諸税の軽減を行った。またのち明和8年に寒川・三木・山田各郡の農民たちが,旱魃により年貢が納められなくなったため,藩へ拝借を要求して城下の郷会所へ訴え出ている(尾崎卯一関係史料)。宝永4年の大地震の時に,高松城の天守の瓦が落ち,城内では19の建物が壊れ,城下と近郊で家中屋敷45,町家649,農家235が倒壊した(増補高松藩記)。香川郡東の法然寺は法然上人の配所地である那珂郡四条村の生福寺を寛文8年に百相村に移して仏生山来迎院法然寺と称したもので,延宝元年300石の朱印地を与えられており,高松藩主の墓所である。興正寺領は,生駒親正に寺領高150石を寄進されていた勝法寺が,延宝元年に150石を京都の本願寺の脇門跡であった興正寺の寺領として朱印地になったもので,勝法寺は代僧となった(寺社記)。法然寺領には年寄,興正寺領には庄屋が置かれていた。香川郡東には法然寺のほか高松藩主松平家の菩提寺で寺領300石を与えられた浄願寺,生駒高俊が外祖父藤堂高虎の菩提を弔って建て,のち寺領100石を与えられた蓮門院(克軍寺・本門寿院ともいう),生駒一正が父親正の墓所として建て寺領50石であった弘憲寺,生駒一正・正俊父子の墓所で寺領100石の法泉寺などがある。神社では香川郡東の石清尾八幡社は勧請の時期ははっきりしないが,南北朝期はじめの貞治2年に細川頼之が同社へ祈願したといわれ,寛永21年松平頼重により社殿を再興され,寛文6年に社領202石余を与えられた。これらのほかに香川郡西には四国霊場八十八か所第82番札所で,生駒一正に18石余を寄進され,延宝4年寺領高30石となった根香寺,同年50石の寺領高となった国清寺,天正15年生駒親正に50石を寄進され,延宝7年社殿を再興した一宮神社などの寺社がある(寺社記)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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