香西町(近代)

大正4年~昭和31年の香川郡の自治体名。中笠居村を改称して町制施行。大字は編成せず。村制時の5字を継承。当町は香川郡北部の中心地として,港町として発展した。檀紙村御厩【みまや】・下笠居村字川窪などの窯業が機械化され増産されると,その集積地・積出港として香西港が利用され,船舶業も盛んとなった。15名で設立された香西船舶同盟組合は,昭和3年には組合員54名・船舶56隻となり,船舶も帆船から機帆船へと改良され,行先も中国・九州などまで広がっていった。特に移出品に郡内の植木・果物・米麦などを加え,帰りの便で牛・石炭・木炭などを移入して売りさばき,当町の商業の発展へとつながっていった。それは,檀紙からの道(はじめ郡道,のち県道)や神在方面からの道などの改良と香西港の改良をも促した。香西港は昭和6年第1期,同23年第2期と,それぞれ数年計画で修築工事が行われた。町内でも,西臨港線の道路が同24年から進められた。ただ昭和初期から統制経済時代に入り,海運も統制されて衰退を余儀なくされる。第2次大戦後,統制解除とともに,昭和22年香西船主組合・香西機帆船組合・香川県機帆船協同組合の3組合が設立され,同26年には,香西港への入船船舶が1万5,090隻を数える(新香西史)ほどにまでなるが,陶器の方が,電気・化学製品などに取ってかわられて漸次衰退し,煙突・ポールなどのセメント製品にその活路を見出そうとつとめることになった。明治42年125名で創立された杜氏の組合は,昭和8年には215名と発展し,大正初期から品評会を,また毎年講習会を開くなどの努力を重ねて,出稼ぎ産業として盛んになるが,後継者不足と,半年産業であるために,漸次衰退。伝統的な漁業も,大正12年漁業倉庫を建築,同14年に漁獲物共同販売所を建設するが内海漁業の限界に直面する。昭和27年から,港湾浚渫の土砂で埋立地を造成し,そこに東臨港線道路を開設し,同29年東讃塩業組合の真空製塩工場を誘致した。農業の方では,大正6年米の耕地反別216町8反,生産額5,630石が昭和27年123町1反・1,978石と減少している。商工業などの発達で,耕地が工場・宅地・道路となっている。昭和23年県立香川農業高校香北分校(昭和24年香川高校香北分校)が招致され,同28年には香西町観光協会が設立され,芝山海浜公園を開き,芝山海水浴場を充実させた。大正9年の世帯数744・人口3,440(男1,753・女1,687),職業別人口は,農業1,589・水産業397・工業524・商業388・交通業206など。昭和5年の人口は4,013人,世帯数・人口は,同10年837・4,289,同25年1,229・6,081(男3,006・女3,075)。昭和25年の産業別世帯数は,農業449・水産業57・製造工業48・建設工業171・商業112・運輸62(新香西史)。同29年の香西港入港船舶は6,162隻,その取扱品は,セメント4万6,892t(22%)・木材1万3,690t(7%)・石炭5,740t(3%)・動物(牛)4,120t(2%),その他雑貨13万9,240t(66%)となっている。昭和27年国鉄予讃本線の香西駅にガソリン車が停車するようになったが,駅が当町の南東方の地であり,同年国道233号(昭和28年11号となる)が北に迂回して当町を通るようになるが,それも当町市街地の南部を通るためいずれも当町の陸上交通路の発展への大きな力とはならなかった。当町は香川郡北部の中心で,昭和4年当町を中心として上笠居・下笠居・弦打4か村の合併計画があった(高松市史年表)。同31年高松市の一部となり,香西・新田・平賀上・平賀下・西打の5字はそれぞれ同市香西本町・香西東町・香西西町・香西北町・香西南町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7429518 |