三本松村(近世)

江戸期~明治23年の村名。大内郡のうち。白鳥郷に属す。はじめ生駒氏領,寛永19年からは高松藩領。村高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」471石余,「貞享元年高辻帳」408石余,「天保郷帳」475石余,「旧高旧領」484石余。慶長14年当村684石余を含む2,963石余が生駒一正により水口隼人の代官所に預け置かれた(生駒家宝簡集)。天明7年の村明細帳によれば,年貢諸役296石7斗余(未進は58石8斗余),家数429(石居191・掘立238)・人数1,539(男787・女752),人数の内訳は本百姓621・間人161・名子56・漁師210・本水夫153・賃水夫223・下男下女10・酒屋19・紺屋19・御林守12・大工7・浦番所6・癩人5,また出家・医者・道心・座頭など37。寺院は一向宗1,神社3,堂数4,御林2,池7,船80,酒屋4,浦番所2(御番所1・添番所1),狼煙2,牛40。寛政11年の家数611うち本百姓403・間人208,人数1,740(男920・女820)うち本百姓1,151・間人589(日下家文書)。文化15年の鍛冶職2。文化8年の年貢皆済覚によれば,本米300石余・口米9石余・四分米19石5斗余・夏成大麦22石2斗・同小麦11石余・林運上銀銀札7匁2分余・薪1束4分。文政7年内免仕別帳では,田畑屋敷44町5反余(田28町余・畑16町余)・454石5斗余(田373石余・畑81石余),取米299石2斗余,ほかに新開田畑3町8反余・23石6斗余。郷御蔵が設けられ,大内郡西部23か村の年貢を収納した。本年貢は11月末までに8割を米納し,残りを翌年6月に銀納としたが,寛政7年6月の当村の銀納は555匁余。夏成は,同11年の盆前納銀札450匁・大麦5石6斗・小麦1石2斗,文化6年銀札510匁・大麦5石4斗・小麦1石2斗,同年にはほかに餅1石6斗・大豆8斗を上納(日下家文書)。寛政4年の風水害では125石5斗余の破免願いを出している。同11年は旱魃・虫害,文化14年の水害では翌年難渋人202人,藩は三本松御蔵から122石余の飢人扶持米を出した(日下家文書)。万延元年7月には,「村中一円海原に成,……田畑都而海中如」(無昿録)という水害があり,藩は大内郡の飢人5,985人に対し,三本松御蔵から280石2斗余,引田御蔵からは70石6斗余の御救米を出した。文化年間頃から砂糖生産が盛んになり,文化11年の植付1町1反(日下家文書)。文政4年頃河野忠六が御国砂糖川口出入の指定をうけた。同8年植付4町3反余。同年藩は「車元割当銀」制を実施し,大内郡は砂糖車1梃につき25両の引替を割り当てられ,当村引替所の請負人は網屋与惣兵衛。同11年船頭7人が大坂表砂糖仲買人の処置について嘆願書を提出している(津本家文書)。天保元年領内5人の砂糖引請人を置いて砂糖代前貸を始め,当村引請人は津本甚右衛門。また同6年領内9か所に砂糖問屋を設けたが,当村問屋は高畑作兵衛。同年砂糖車1梃につき2分の課税。元治元年三殿村砂糖会所の出会所を設け,引請人は与助。天保2年の造酒屋3(酒屋共人別連判状)。同3年藩主頼恕の命で,堤治平衛が京都の陶工高橋道八を招き讃窯を始めた。灌漑は古川・与田川の伏流による出水と溜池により,南大井戸・西大井戸・天神池・丸山池などがある。天明7年の網数は地引網7・中高網1・たい高網15・海鼠網2・立網260・鱧縄16・たなご網3・てぐり2・こち網5(津本家文書)。文政年間の網各漁師名書上によると,地引網5・鱒網5・流網2・鱧網1・ちぬ網5・ごち網5・仕落永網5,運上銀は地引網75匁・鮗網13帖65匁・手ぐり網28匁・鱒網20匁・ちぬ網4匁・立網5帖25匁・ごち網48匁・鱧網2匁。廻船は,文政4年72艘・4,314石,内訳は800石積1・720石積1・650石積2・600石積1・100石積2・70石積1・60石積2・50石積4・45石積1・35石積1・30石積1・20石積1・15石積1・10石積以下53。また天保3年88艘・1,796石(津本家文書)。文政7年の他国米は備前・雲州・平戸・筑前・肥後・加賀・庄内・越後・出羽・備中の諸国から入り,船籍は下津井・鶴羽・鞆・小豆島・尾道・備前・津田浦・大坂・引田などである。石州浜田外ノ浦の清水家の諸国御客船帳には,延享2年~明治11年まで当浦からの入船54艘を記載,砂糖・塩・縞・米などを売却し,干鰯・鉄・扱苧・平紙などを買い入れたとしている。享和2年の菜種積出375石9斗(同前)。また浦庄屋津本家の海難関係浦証文には多くの事故例が記されている。明治元年廻漕業伝吉は,砂糖・塩などを出羽国能代に運んだ帰途,越後国長岡攻めの官軍参謀大山格之助(網良)の要請で食料を出雲崎まで運び,帰国後,帯刀を許され,金200両と終身5人扶持を支給された。藩は三本松浦に番所,横内・小磯に下番人を置いた。浦庄屋は多く村庄屋が兼帯し,その下に浦年寄・浦番を置いた。藩の御用水夫23・賃水夫35(嘉永6年御船手御心得方覚書)。元治元年参勤交代に際して,100石積・50石積各1,本水夫23・賃水夫35が徴用されている(坂東家文書)。高松城下から阿波に至る東讃浜街道が村の南部を東西に通じ,街道に沿って町並みが形成された。「讃岐国名勝図会」に「高松より行程八里,民家軒をならべ豪商富賈工人漁家等数多あり,且この浦に四石以上の大船数十艘あり,近浦に秀て繁花の地なり」とある。庄屋は,延享~安永年間津本新兵衛,天明~文化年間河野忠六,文政年間津本甚右衛門,天保~嘉永年間高畑作兵衛,慶応年間高畑権太郎らが勤めている。神社は天神社・蛭子社・金比羅社・厳島社・出雲社・八坂社,寺院は浄土真宗興正派海境山勝覚寺で,明暦3年沙門正哲草創と伝え,妙好人庄松の寺として有名。明治4年高松県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治8年の戸数669・人口2,908,反別50町余(梶山家文書)。明治4年大内公学を創立,同5年勝覚寺境内に第4区小学校を設置,同20年三本松尋常小学校と改称。明治11年自由民権運動の結社として当村を中心に興民社が設立され,教育部として興民義塾,勧業部として糖業組をもち,糖業関係の融資・共同購入・販売事業を行った。また学習組織は漱石社・同気会(同20年設立)などに受けつがれた(東讃産業史)。明治5年讃岐国産砂糖取扱所を設立。同17年高松の純民社・興民社とともに讃岐糖業大会社を設立,本社を高松,支社を当地と坂出【さかいで】に置いた。同20年大内郡糖業組合結成,同22年糖業大会社三本松支社が廃止され糖業は次第に衰退していった。明治5年郵便取扱所を設置。「新撰讃岐国風土記」によれば,郷の北西に位置し,東は湊,南は川東,西は中筋・横内の諸村に接し,北は海に臨み,反別は田45町余・畑28町余・山林9町余・宅地14町余,戸数630・人口3,321(男1,661・女1,660),村役場・尋常小学校・高松区裁判所出張所・長尾警察分署がある。同23年市制町村制施行により単独で自治体を形成。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7429635 |





