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七箇村(近世)


 江戸期~明治23年の村名。那珂郡のうち。真野郷に属す。はじめ生駒氏領,寛永19年からは高松藩領。古くは真野郷全域が七箇村と呼ばれており,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」ではそれを東・西に分けて,七ケ村西分・七ケ村東分としている。そのうち西分は新目・山脇・大口・追上・宮田・生間・買田,東分は本目・春日・小池・照井・帆山・後山・福良見の諸村からなっていたが,寛永18年西分7か村と帆山・後山2か村と福良見村の一部をもって丸亀藩(山崎氏)領西七箇村が成立,この時点から残る4か村と福良見村(残部)が七箇村となり,また東七箇村とも通称された。村高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」2,013石余,「貞享元年高辻帳」665石余,「天保郷帳」878石余,「旧高旧領」1,157石余。寛永19年の小物成は真綿1貫462匁余,枌147荷(480枚),炭66石,茶代銀10匁8分,漆代銀3匁3分。寛永18年伊丹播磨守・青山大蔵小輔が七ケ山の東分・西分が多度・那珂両郡の入会山である旨の覚書を書いているが,この中で関連庄屋に照井村市左衛門の名も見えるところから当村は藩の森林資源の地として重視されていた(大西家文書)。那珂郡の南部は水利の便に恵まれず,干害を受けることが多かったため,中世から雨乞の七箇念仏踊りが伝えられていた。高松藩領の塩入・七箇・真野・岸上・吉野上・吉野下・四条,池御料の五条・榎井・苗田,丸亀藩領の佐文・西七箇の諸村にまたがる大組織で,3年目ごとの7月に満濃池宮・春日宮・新目宮・大井宮(池御料)・吉野上宮・買田宮・金毘羅宮・岸上宮・真野宮で230人編成の踊興行を行い,最後に滝宮天満宮へ奉納した。衣裳や用具の購入費と雑費を加えて,文政12年には銀1貫934匁余と銭2貫200匁を費やした1か月余に及ぶ大行事であり,種々の紛争も起こった(奈良家文書・金光院文書)。この地域は土地がやせていて水利の便も悪く,農民が年貢米の重圧にたえかねて逃散するものも多かったため,藩では弘化3年に食糧1人大麦3斗と住居と納屋を与えることを条件として入植を求める通達を出している(西村文書)。神社は春日の春日神社,天児屋根命を祀り,弘安元年創建,春日造の本殿の彫刻のなかに,神鹿が刻まれている。標高577mの尾瀬山の頂上にある尾瀬神社は水の神を祀る祈雨の霊場である。そのほかに久保の久保神社,本目の藤尾神社,福良見の白鳥神社,照井の大山神社がある。寺院は,真宗興正派の春日の蔵王山了徳院春光寺,本目の恵日山道徳寺,福良見の梅香山福浄寺,照井の照林山永王院円徳寺。円徳寺は天文年間に蓮如上人によって得度剃髪した江州の武士日野源左衛門が開基したと伝えられる。明治4年高松県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治8年の戸数381・人口1,729,反別132町余(梶山家文書)。明治5年8月福良見に梅野学校,同年10月春日に黄葉学校が開校,同17年両校を合併して小池地区に黄梅学校を設立した。明治12年,他村へ売却するもの米544石余(うち400石は徳島県三好郡)・薪2万8,800貫,他村より買い入れる品は塩156俵・醤油38石・葉煙草2,340斤・刻煙草2,340斤・肥干鰯5,560俵など18品目に達している(戸長役場記録)。同年の商業専業戸数2,農業兼業の諸営業戸数65,大工などの職人は24名(仲南町誌)。「新撰讃岐国風土記」によれば,郷の南西に位置し,隣村は東に吉野上,南に塩入・阿波国三好郡昼間,西に山脇・新目・後山・帆山,北に真野・岸上,反別は田192町余・畑7町余・山林1,013町余・原野8反余・宅地18町余,戸数385・人口2,125(男1,071・女1,054),山は大浦山・城丸山・中山・前山・尾瀬山・多治川山・日浦山・込尾山,川は久保川・照井川,泉は山原出水・薬師出水・西山出水,池は氏社池・中池・下池・株屋敷池・宮西池・宮東池・葛神池・馬谷池・西三田池・新池,村役場・尋常小学校があり,産物は松茸・大根・秋蛭。同23年七箇村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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