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小豆島


当島は大坂から西への瀬戸内海海上交通の要地に位置しているため早くからその重要性は注目され,天正9年から10年末にかけて豊臣秀吉の下で小西隆佐が代官を勤めていたといわれ,天正13年には秀吉の蔵入地(直轄領)として隆佐の子小西行長が代官となって支配した(イエズス会日本年報)。同16年からは片桐且元が,大坂の陣により当島が幕府領となった直後の元和元年5月まで代官として支配した。その後は堺奉行,伏見奉行を経て正保4年から延宝5年まで大坂船奉行,大坂町奉行の管轄下にあったが,翌6年から享保5年まで代官(大坂在住)が置かれ,元文4年以後代官(大坂在住),笠岡代官,石見大森代官らが支配したこともあったが,ほとんどは倉敷代官が支配した。天保9年から当島のうち池田・土庄・淵崎・上庄・肥土山・小海【おみ】の6か村が美作【みまさか】国の津山藩領となって明治維新まで続き,それ以外の草加部・福田・大部の3か村は幕府領として続いた。なお宝永5年から正徳2年,享保6年から元文4年まで全島が讃岐国の高松藩の預り地,天保元年から同8年まで,草加部・福田・大部の3か村が伊予国の松山藩の預り地となった(内海町史)。当島の検地のはじめは慶長10年で島中惣石高は3,695石余であったが,延宝5年から同7年にかけての検地では7,758石余と倍以上の石高となった(御用船舸子旧記之写)。これは出高の増加や新田の開発と,慶長検地では舸子役負担の見送りとして畑高は麦高の半分を米に換算して実際は米高が低くなっていたのに対し,延宝検地ではこれを廃止したためである。その後の石高の変遷は宝永7年8,694石余(小豆島史料),延享年間頃8,578石余(石井文書),明和年間頃8,626石余(土庄町役場文書),「天保郷帳」8,994石余,「旧高旧領」9,037石余。慶長10年小豆島検地図では島内を土庄組(土庄・伊喜末・里肥土・笠滝・家浦・唐櫃【からと】・甲浦・山肥土・上庄・淵崎・大木戸・加島),池田組(池田・中山・蒲生・室生・二面・吉野・蒲野・新部・北地・迎地・上地),草加部組(草加部・日方・安田・苗羽・古江・坂手・堀越・たこ・水木・原村・清水・上村・木庄・馬木・たちはな・岩たみ・当浜),北浦組(福田・大部・小海・吉田・東小部・ことつか・三目・屋形崎・馬越・滝宮・長浜・小江)の4組としている。のち島内は9区分され,慶安元年の検地図によると福田郷(福田村・吉田村),大部村(大部村・小部村・田井村・琴塚村),小海村(小海村・見目村・屋形崎村・馬越村・滝宮村・長浜村・小江【おえ】村),肥土山村(肥土山村・土井村・笠ケ滝村・小馬越村・黒岩村),上庄村(上庄村・北山村),淵崎村(淵崎村・黒田村・伊喜末村),土庄郷(土庄村・大木戸村・鹿島村・家浦村・唐櫃村・甲村),池田郷(池田村・向地村・北地村・上地村・奥山村・中山村・蒲生村・入部村・室生村・二面村・吉野村・蒲野村・神浦村),草加部郷(高生村・水木村・日形村・清水村・後山村・上村・草加部村・木庄村・安田村・橘村・岩谷村・当浜村・苗羽村・古家村・堀越村・田浦村・坂手村)。延享年間頃は次の通りである。土庄村(土庄村・唐櫃村・家浦村・甲生【こう】村),池田村(池田村・蒲生村・中山村・室生村・吉野村・二面村・蒲野村・神浦村),肥土山村(肥土山村・籠滝村),上庄村,淵崎村(淵崎村・伊喜末村・黒岩村・小馬越村),草加部村(西城村・片城村・上村・下村・安田村・苗羽村・西村・坂手村・古江村・堀越村・田浦村・橘村・岩谷村・当浜村),小海村(小海村・見目村・屋形崎村・馬越村・滝宮村・小江村・長浜村),大部村(大部村・田井琴塚村・小部村),福田村(福田村・吉田村)である(石井文書)。これら9村のうちでは草加部村の石高が2,464石余と一番多く,次いで池田村1,852石余,土庄村1,517石余で,最低は福田村の151石余となっている。なお,家浦村・唐櫃村・甲生村は豊島にある。元和年間頃の家数3,638・人口1万8,796,寛文年間の家数3,566・人口2万65(小豆島風土記),宝永7年は家数6,167・人口3万717(男1万6,347・女1万4,370)であり(小豆島三才図会),元文4年は家数5,557・人口2万9,600で(小豆郡史),天保9年は家数6,742(小豆島三才図会)。宝永7年の寺数40(真言宗38・一向宗2),馬502,牛1,995,郷蔵14か所,高札場41か所(小豆島史料)。島内の津山藩領では,弘化2年には出生632人,流入123人,死亡374人,流出231人,文久3年には出生589人,流入145人,死亡846人,流出163人。天正13年に小豆島を管轄していた小西行長は熱心なキリスト教信者で,宣教師ルイス・フロイスの書簡によると,小豆島に宣教師が派遣され1,400人以上が信者となり,15m余の十字架をたてたという。のち寛永7年の小堀政一のキリシタン取締りによって島内のキリシタンは根絶したという。寛永14年から同15年にかけて島原および天草の農民を中心として島原の乱が起こり,これによって島原半島地方の農民が激減したため,幕府はその対策として隣接する各藩の農民を移住させたが,この時当島民にも移住の命令があり,寛永19年に草加部村の田浦から10数戸が移住し,また慶安元年にも移住が行われた(小豆島社会経済史話)。徳川幕府は豊臣家を滅ぼしてのちの元和6年から寛永6年にかけてのほぼ10年間に,3回に分けて大坂城の修築工事を行ったが,この時当島から大坂城の石垣の石が切り出された。その受け持ちの大名と石丁場は,筑前福岡藩主黒田家が草加部村の岩ケ谷丁場,伊勢津藩主藤堂家が草加部村の当浜丁場と福田村の丁場,豊前小倉藩主細川家が小海村の丁場,肥後熊本藩主加藤家が土庄村の小瀬丁場・千軒丁場,筑後久留米藩主田中家が池田村の石場丁場,豊後竹田藩主中川家が大部村の丁場であった。小豆島に残された石に記された刻印と同じものが,現大坂城の石垣にも刻まれている。岩ケ谷石丁場跡は現在でも石切出しの当時の状況をよく残しており,大坂城石垣石切丁場跡として国の史跡に指定されている。なお豊臣秀吉が大坂城を築いた時にすでに小豆島から石が運ばれたという見解もある。当島は小田原の陣や文禄・慶長の役の時に加子浦として船や水夫を豊臣秀吉のもとに供出しており,江戸期に入っても加子浦となって加子役を勤めている(御用船加子旧記之写)。たとえば元和元年の安芸広島藩主福島正則の改易に際しては船50艘・水主1,200人,寛永9年の肥後熊本藩主加藤忠広の改易の時には船70艘・水主数百人,寛永14年の島原の乱では船42艘(水主共)を出すなどがある。しかし元禄2年に幕府は当島の加子浦としての義務を免除した。同じように加子役を勤めた塩飽では,島中人名650人に石高1,250石が与えられるといういわゆる無年貢地の特権をもっていたが,当島の場合は塩飽のような特権ではなく,畑の石高を麦高で表し,米高で換算する場合にはそのほぼ半高で表示することにしていた。慶長10年の島高でみると,惣高3,695石余のうち麦高は1,360石余で残りの2,334石余が米高で,麦高のほぼ半額が米高に換算されて658石余となる。そして米高合計2,992石余に年貢が課されるのである。つまり年貢賦課石高が島石高より700石余少なくされていた。延宝検地では倍以上に増えて島惣高は7,758石余となったがこれはすぐには適用されず,以後も慶長10年の検地石高で年貢徴収が行われた。元禄2年以後加子役が廃止されたことにより,延宝検地に基づく石高を基準にして年貢徴収が行われた(小豆島社会経済史話)。延宝検地の増加石高のうち新開は1,024石余,出高は3,103石余であり,出高の石高が多いのは竿先出目や位違出目など田畑の厳しい再調査によって石高が増えたからであり(小豆島御検地総目録),この延宝検地によって年貢を徴収することは,従来に比べて島民にとっては非常な重税となった。この事態に際し,元禄3年に池田村の庄屋らは幕府へ年貢減免の訴状を提出したが効果はなかった。これから20年後の宝永7年には幕府巡見使へ同じく訴状を提出し,翌正徳元年には池田村庄屋の平井兵左衛門らは幕府の勘定方へ訴え出た。当時当島は高松藩の預り地であったので勘定方への訴えは越訴となり,兵左衛門ら関係者は断罪された(笠井文書)。延宝検地での当島の小物成は塩浜運上銀24貫115匁・山運上米209石余・豊島石場運上860匁・松山運上塩50俵・藪運上銀50匁余・猟網運上米43石余(網304帖)・寄魚運上銀1貫816匁余・廻船運上銀977匁(24艘)・帆別運上米1石余・計運上銀3貫703匁余・運上米254石余であり,このほか廻船以外の小船の猟船・柴船・塩積船などの船運上があったが,この時は免除の方針であった(足守文庫)。のち宝永7年の小物成では松山運上が樹木役定納銀264匁余になっているが,これらのほかに問屋運上銀344匁余・酒造冥加銀76匁余・船運上銀1貫486匁余・鰆網運上銀15匁・手操釣船運上米2石余・鰯網運上米1石余・六尺給(江戸城中の人夫徴用代)17石余・御伝馬宿(五街道宿駅の費用)5石余・御蔵敷入用銀(江戸浅草の幕府の蔵の経費)1貫304匁余が計上されている(小豆島史料)。近世の初期以来島では漁業が盛んであり,延宝5年の検地の頃には,鯛網・いかなご網・鰆網・鰯網・真網・いか網・小手操網などが行われており(足守文庫),延享年間頃の網運上は計44石余であった。そのうち草加部村の14石余が最高で次いで土庄村の10石余,福田村の8石余,池田村の6石余となっている(石井文書)。延宝5年の廻船運上が課された24艘は160石積から580石積の船であり,うち草加部村が最多の11艘,次いで池田村4艘,大部村3艘,土庄村2艘,肥土山・上庄・小海・福田の各村はすべて1艘である(足守文庫)。のち延享年間頃には150石積以上の廻船は19艘で,草加部村10艘のほか,ほかの村々は3艘以下である。近世後期になると島で醤油・素麺などの産業が発展するにつれて,島から各地への運送のために一層廻船業が発達していったであろう。草加部村の苗羽の廻船太神丸が瀬戸内海各地はもちろんのこと九州や山陰地方との取り引きのために航海している。当島での入浜式塩田による製塩の行われたのは天正年間に赤穂から塩浜師が草加部村の馬木で製塩を始めてからであろうといわれている。そして慶長10年の検地からは大坂城へ1浜につき塩2俵を納めることになり,以後江戸期を通じて行われた。大坂城納めは近世初期は209俵であったが,天和3年からは259俵となった(内海町史)。幕府へはこのほかに延享年間頃には塩4,336俵余が銀納されていた。製塩の最盛期であった同時期の当島の塩田面積は66町余(浜数2,431)で,その内訳は土庄村17町余(浜数717)・草加部村16町余(浜数595)・淵崎村11町余(浜数474)・池田村9町余(浜数363)・小海村4町余(浜数175)・上庄村2町余(浜数107)であった(石井文書)。当島の塩は島塩と呼ばれ京・大坂方面で販売された。寛政3年頃から1世紀にわたって盛んであった製塩業も幕末には衰退しはじめ,天保9年にはたとえば草加部村の塩田面積は8町余と,延享年間頃に比べて半減している(内海町史)。塩のほかに本島の主な産業として醤油・素麺・砂糖の製造があった。醤油製造は塩業の衰退とは逆に盛んになりはじめ,幕末には島内第一の産業へ発展した。文化元年に草加部村安田の高橋文右衛門が醤油を製造して大坂へ売り出しており,約40年後の天保13年には島の醤油製造業者が組合を結成している。高橋家では文化5年の仕込石数は63石余であったが,24年後の天保3年には300石余となり約5倍に増加している(内海町史)。素麺は慶長年間頃に池田村で生産が始まったといわれ,その後全島へ広がっていったが,特に西部地域で多く生産された。山陽・九州地域に売りさばかれ,広島・長崎での販売が多かった。幕末の文久2年には素麺問屋50名によって三輪明神講が設立された(小豆郡史)。砂糖の原料である甘蔗が文政12年に肥土山村で3町余に植え付けられており,また天保2年には上庄村で甘蔗植付面積は8反余で黍4,000貫の収穫があり,これから白砂糖360斤・蜜648斤がつくられ,大坂や岡山へ売り出されている(土庄町教育委員会蔵文書)。また草加部村の安田では天保14年に1町2反余に甘蔗が植え付けられている(赤松文書)。このほかサツマイモの生産や菜種の栽培とこれを原料とする絞り油業が行われていた。明治2年に当島から各地に積み出された商品とその量は,素麺3万5,000箱,醤油5,000挺,塩1万2,000俵,サツマイモ3万8,250俵,白砂糖600挺,板石2,603間,石炭3万7,783樽と,豊島石は代銀50貫目であった(津山郷土館文書)。このように当島は近世を通じて商品生産の盛んな地域であった。当島はわが国で最も降雨の少ない地であり,延宝5年には溜池は70か所あったが,池反別が10町余であるように池の規模は小さかった(足守文庫)。このため延宝5年から7年後の貞享元年に肥土山村の庄屋太田伊左衛門は銚子渓の奥に溜池をつくることを倉敷代官へ願って許可された。伊左衛門は私財をなげうって3年かかってこれを完成させた。池床にカエルの子がたくさんいたところから蛙子池と名付けられた(讃岐のため池)。慶応3年に,天保9年以来津山藩領であった西部6か村で百姓一揆が起こった。津山藩では文久2年に年貢の1割増,新運上銀,津山表奉公人給銀の農民割当てなどを課した。このため西部6か村の農民にとって負担が過重になっていたが,5年後の慶応2年に小豆島では米価が暴騰して米1石につき銀800匁から1貫匁になったので,津山藩は米570俵を難渋人救済のために下げ渡した。しかし同年暮に6か村惣代は物価高騰を理由に文久元年の新賦課の廃止を要求した嘆願書を淵崎陣屋へ提出した。翌3年正月に嘆願書の津山表への取次ぎと新たに難渋人救済米950俵の支給が津山藩下役より伝えられたが,小海村の北浦で約400~500人が蜂起し,さらに淵崎村・土庄村・上庄村・肥土山村の庄屋・商人の居宅などを打ちこわし,池田村にも波及していき,西部6か村全域に及んだ。この一揆は2日間で鎮まったが,打毀にあった家は41軒を数え,当島を代表する百姓一揆であった。西山宗因の門人松山玖也は寛文7年8月に大坂を出発し,内海の時松亭(草加部の大庄屋江田太郎左衛門宅)を訪れ20日程滞在して,その後9月に帰宅するまで讃岐の名所を巡ってその紀行を残した。また,小林一茶は寛政9年秋,土庄の大庄屋で俳人の笠井三郎左衛門を訪ねてしばらく滞在し,連句作品を残す(一茶連句帖)などしている。明治元年島内の幕府領3か村は倉敷県,同4年丸亀県を経て香川県に属し,同年津山藩領6か村は津山県,北条県を経て,同5年香川県に属し,ともに同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年からは愛媛県に所属。明治5年88区制の施行により第23区(草加部村および支村16か村),第24区(福田村,大部村および支村4か村,小海村および支村7か村),第25区(淵崎,伊喜末,黒岩,小馬越,肥土山,笠ケ滝,北山,上庄の各村),第26区(土庄,大木戸,鹿島,宇根ほか3か浦),第27区(蒲生,迎地,北地,上地,中山,池田),第28区(室生,二面,吉野,蒲野,神浦),第29区(唐櫃,家浦,甲生)に配された。同7年の大区小区制では名東県の第17大区1~4小区に,同8年大区の名称が第5大区に改称され,また同9年8月には第7大区に,さらに愛媛県に編入されるに及んで同年9月には第3大区に改称された。第17大区当時は区長事務所を草加部村に,戸長事務所を1小区は草加部村,2小区は池田村,3小区は淵崎村,4小区は豊島および同事務支所を直島に置いた。区長並学区取締兼務には溝淵久中が任命された。同8年の戸数8,679・人口3万9,860,反別1,474町4反余(梶山家文書)。同11年の郡区町村編制法の施行により小豆郡となった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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