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新名(近代)


 明治23年~現在の大字名。はじめ上高瀬村,昭和30年からは高瀬町の大字。明治24年の戸数251・人口1,264(男606・女658),幅員東西30町・南北15町,寺2,学校1(徴発物件一覧)。当時の同地域の概況を示す資料によれば,製造所などは1か所もなく,ほぼ純然たる農村部であった。農業関係の事跡としては,西下集落の耕地整理事業があげられる。耕地が低湿で,二毛作が困難であり,また水害にも見舞われがちであったため,その対策の一環として,大正元年,耕地整理組合が結成された。同6年には,50町余の耕地整理が完了。効果は著しく,以後500石以上の増産が可能となった。主穀類以外では,煙草の栽培が大正末年から始まった。第2次大戦の戦時中の一時期を除き,昭和20年代なかば頃にかけ,作付面積は増加した。大正末期から昭和10年頃に至る長期の農村不況の時代には,旧来その伝統をもたない養蚕・製糸業の導入が図られた。昭和4年,地内に製糸工場が設立され,同13年には工員約140名を擁して年産量は年間20t(生糸)を上まわるに至った。戦後はこれらの煙草・養蚕はむしろ後退し,西讃の他の農村部と同様,諸種の蔬菜などを中核に,一層多角的な農業が展開することとなった。大正2年,国鉄讃岐線(予讃本線)の上高瀬駅(高瀬駅)が地内に開業。当時1日の列車停車数は,上り・下り合計で5回であったが,昭和48年には44回に増加,乗降人員は同42年頃がピークで1日平均6,175人であった。タクシーの営業は昭和2年に始まっているが,その営業拠点は上高瀬駅東で,ほどなく運行が開始されたバスの定期路線も,同駅前をターミナルもしくは経由地点としていた。当地域は,近代交通機関の一結節点としての役割を果たし,現在に至る。このため,現高瀬町域内でも,当地区は商店の分布密度が高く,相対的に繁華な相貌を呈している(高瀬町誌)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7429770