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高松城下(近世)


 江戸期の城下町名。高松城は香川郡東のうち。箆原【のはら】郷に属す。香東川・詰田川両河口の間,瀬戸内海に面して位置する。城下町の形成は,天正16年に香東郡野原郷(旧東浜・西浜・宮脇・栗林・上ノ村・中ノ村・今里・福岡の地域)の北部の海辺に生駒親正(讃岐17万3,000石領主)が高松城を築いたときに始まる。そして生駒氏4代・松平氏11代の約280年間,軍事的根拠地であるとともに,政治・経済・文化の中心地としての役割を果たしてきた。高松城の特色は海に臨み,濠に海水を導いて築城したことである。高松城と同じ水城として豊前の中津城(黒田氏築城),伊勢の津城(藤堂氏築城),伊予の今治城(藤堂氏築城)がある。高松城は天正16年に築城に着手し,3か年余の歳月を要して完成したと考えられるが,城の縄張り,城下町の区割については記録が残っていない。当時の城と城下町は軍事的な要害地のほかに,交通の便利な土地(海や川に面した平地)を選んでつくられた。高松の場合も香東川河口の三角州が選ばれた。北に海,南に平野が広がり,城下町の町割が巧みにできて,将来発展する地理的条件を備えていたからである。城郭と城下町の姿を生駒氏時代の寛永17年(一説には寛永15年という)に作図された高松城下屋割図から考察すると,天守閣(四重,南北10間・東西11間)と本丸(東西22間・南北13間)は中央にあって,四方に濠(西側14間幅・南側20間幅)をめぐらし,北側の「らんかん橋」で二の丸(南北52間・東西25間)に通じている。二の丸と三の丸(南北65間・東西75間)とは循環的に配置され,天守曲輪の南と西側の濠を隔てて帯曲輪がある。ここに対面所・下台所・近習屋敷・局屋敷・女の家・生駒隼人屋敷・城主居館があった。帯曲輪の外側に中濠(南と西側11間・東側18間)があって内郭(内曲輪)を囲むように外郭(外曲輪)が形成されていた。総曲輪内の大部分は侍屋敷(重臣屋敷は中濠に面していた)で108軒と記されている。また北東部の地区に本町・たたみや町・魚のたな・いほのたな町・とぎや町・津るや町・津る屋町通りの町があって,城下町の各町に対して内町と呼ばれた。外曲輪の外側が外濠(11間幅)で,外濠の東西の両端に東浜舟入と西浜舟入が続いている。城下町は片原町とその西にのびる兵庫片原町が外濠に接し,外濠の両端にあたる東は通町筋,西は広庭【ひろば】から「けんざん寺(法泉寺)」前通りの侍屋敷・寺屋敷を境に南は寺院・寺屋敷を境として,丸亀町を中心に片原町・百間町・大工町・小(商)人町・新町・兵庫片原町・とぎ屋町・紺屋町・びくに町・かじや町や通町筋などの商人・職人町があり,町家数1,364軒と記されている。侍屋敷は西屋敷(浜ノ丁屋敷)・番丁屋敷(三番丁筋まで)・古馬場屋敷が城の西方から南にかけてあった。総曲輪外の侍屋敷は162軒である。東浜舟入の東に東かこ町がつくられている。寺院は城と城下町を守備するように配置されている。浜ノ丁の侍屋敷の北から西にかけて無量寿院とその末寺の蓮華寺・吉祥寺があり,さらに弘憲寺・見性寺が連なり,西からの防御的役割をもっていた。商人町・職人町の南側を東西の帯状に正法寺・正覚寺・福泉(善)寺・法伝寺・禅正(善昌)寺・浄願寺・脇寺・法昌寺(実相寺)などが並ぶ。さらに外側を寺屋敷・馬屋敷・馬場があって南の防御線となっていた。道路は碁盤目のように通じているが,防御のためところどころ見通しのきかぬように曲折したり,T字形の袋小路をつくっている。寛永17年8月生駒氏は重臣らの権力争いから国替えとなり,以後約1年半は生駒氏旧領は伊予の西条藩・大洲藩・今治藩の統治となっていた。寛永19年2月松平頼重が常陸国下館から讃岐東部の12万石に封じられて,5月に高松城に入った。以降明治2年の版籍奉還までの228年間松平氏(高松藩)の城下町として繁栄した。松平氏が入封間もない頃に描かれた八曲半双の屏風絵図(松平公益会蔵)から当時の城郭内の建物および城下町の町人の生活の様子が推考できる。天守閣は三重で本丸に建物がある。二の丸との間には木橋が架かっていて,二の丸にも居館らしい建物がある。三の丸は空地(承応2年に御屋形が完成して移る)で,帯曲輪の東部に藩主の居館らしき立派な建物がある。中濠には南に通じる橋があり,内曲輪の正面となっている。中濠の外側は内曲輪を囲むように一族や重臣らの大きな侍屋敷がたっていて,門前で主人を待つ供の者や往来する侍の姿などが描かれている。外曲輪(外濠内)には侍屋敷と東部に町人町があって,木戸で区分してある。外濠の東西の両端が舟入になっていて東舟入は商港として多くの船が出入する様子が描かれている。西舟入は藩の専用港であろう,薦で覆った船が10艘余りつないである。城の北側の海には藩主の御召船らしい葵の紋をつけた船が5艘浮かんでいる。舟入と外濠とは土橋で区切られ,城下町に通じている。東の土橋は町人町と接しているので大木戸を設け,高札場が置かれている。外濠の南中央に太鼓橋(常磐橋)が架かり城下町の各町に通じている。城下町の西部の浜ノ丁・番丁と南部の馬責場の南と西に侍屋敷があり,浜ノ丁あたりに登城する乗馬の侍が見える。侍屋敷は土塀または木塀で大小に区画され,家屋が1棟か2棟たっている。屋根は木肌葺で簡素な建物である。寺院は生垣で囲まれていて境内は広いが鐘楼のある寺らしいものは1か寺(法泉寺)だけである。商人たちは通りに面して店を構え,店先にのれんをつるしている。とくに本町・鶴屋町通り・通町筋・兵庫片原町・丸亀町は人の往来が多く,天秤で荷物を運ぶ人や荷馬も描かれている。町のところどころに共同井戸があって人びとが集まって飲料水をくんでいる姿が見える。寺町筋の南に馬責場(調馬所)が東西にのび,乗馬する武士がいる。「古老物語」には藩主松平頼重・頼常が,たびたび見分に出かけて,家中の若者に馬上訓練をさせたとある。城下町の東は井口屋町・通町通りまでで,現在の塩屋町あたりは塩田となっており,釜屋と働く人が見える。西は弘憲寺までで王子権現が野中にある。侍屋敷は三番丁までで四番丁の一部,五番丁の一部が造成中となっている。承応2年正月の城下の火事では侍屋敷22軒と町家481軒を焼失した。同4年には三番丁にあった浄願寺が焼失したので翌年五番丁に再興し,北側に火除けのため馬責場を東西に移した。また中濠の東側,東浜舟入との間のいほのたな町側へ堀を削り西側部分の重臣屋敷を廃し,米蔵・作事所および中濠に通じる水路を設けて,内町(内曲輪)港をつくった。寛文7年愛行院(華下天満宮別当寺)の寺領であった福田免が町家(福田町)となり,延宝4年に浜ノ丁の西にあった侍屋敷が町家(西通町)となった。侍屋敷も生駒氏時代の内町(曲輪内)・浜ノ丁・二番丁・三番丁・古馬場屋敷から北一番丁・四番丁・五番丁・六番丁・七番丁・八番丁まで広がった。さらに2代松平頼常の晩年頃は天神前や旅籠町南側・亀阜地へと次第に拡張されていった。「小神野夜話」(高松藩士の日記)にも,先代(生駒氏)はいずれも本知行にて地方にて知行を取り居宅していたが,松平氏が入部してからは大勢の家中が城下に居住したから,新たに六番丁・七番丁・北一番丁に侍屋敷をつくったとあり,「政要録」にも寛文年間の検地から貞享元年までの約10年間に田46町8反13歩(高542石3斗4升3合)が永引地になったとあり,城下町の拡張によって田畑がつぶされ,町家や侍屋敷が増加したことがわかる。享保3年正月朔日の当城下の大火では棟数1,406軒(郷町寺社とも),竈数2,396か所・家持数953人・侍屋敷83軒・船31艘を焼失し,城下始まって以来の大火事であった。この火事を機会に城下町の整備が行われ,特に浜ノ丁・西舟入付近は大きく変貌した。侍屋敷の木塀は土塀に,屋根は瓦葺に変わった。大きな寺院,町角には用水堀や広場が設けられ,町家も防火壁や屋根瓦が用いられて防火整備がなされた。享保年間は城下町の成熟期であったといえる。享保10年頃の城下図をみると,常磐橋の北詰の東側に御用屋敷,西側に大納戸がある。西舟入の北西に御船蔵がつくられ,船奉行屋敷・御加子長屋があって,藩船の専用港が整備されている。木蔵町の北側(海辺)に藩の材木置場があり,馬責場が浄願寺の西側の南北に移っている。詮議所は鶴屋町境に置かれていて,南隣に籠(牢)屋敷があり,東側に町奉行所がある。侍屋敷(番丁)の南西に宮脇屋敷,左近殿下屋敷,御下屋敷など御連枝の大きな屋敷ができている。町家も,いほのたな町(魚屋町)の東に北浜が,東舟入の東に東浜と材木町が,通町筋の東に井口屋町と新通町ができている。さらに街道筋に沿って南は田町・旅籠町まで,西に向かって西通町・鉄炮町・高島町まで町家が立ち並び,西浜高橋まで城下がのびている。しかし,享保9年から同11年には財政難のため,約350人の侍が整理され,番丁の侍屋敷に空家が目立ち,同13年までに浜ノ丁の北8軒,古馬場19軒,番丁の西詰17軒の侍屋敷が整理されて御用地または町家となった(高松城下武家屋敷住人録)。宝暦2年の城下図では常磐橋北詰の御用屋敷が御馬屋に替わり,大納戸が会所となっている。御船蔵の北側に談議所,東浜と本町の東に使者長屋,東浜新地に狼煙場,五番丁の西に御金蔵があり,鉄砲場が本門寿院(克軍寺)の北にある。御制札が東浜・通町(土橋)・常磐橋・西浜川口の浜地にたてられている。外濠に架かる常磐橋は,城下町から各地にのびる五街道(金毘羅・丸亀・長尾・仏生山・志度)の起点であった。往来する人や品物を取り締まるために,城下町の四辻や大きな寺院の脇には辻番所や定番所・大木戸や出口番所があって,つねに城下町での往来・商売などにまで気を配っていた。特に他国者の監視は厳しく,旅人を泊める宿屋も城下町はずれ1か所にまとめ,旅籠町として区切ってあった。東西の城下町端は太鼓橋が架けられ,城下町が見えないように工夫してあり,城下町側に番所があった。天明7年の高松藩分限帳から,その設置場所をみると,町奉行支配の町出口番所が塩屋町出口・新橋出口に,大手3か所の定番所が西浜口・御林口・田町口に設けられている。さらに郡奉行支配の大手3か所の定番所が宮脇口・円満寺前・大護寺西に,検番所が松島海岸と新橋脇に設けられ,作事奉行支配の辻番所が蓮華寺脇・高畑要人脇・御船蔵脇・古新町西・外高場(橋)・六番丁西・二番丁西にあった。寛政2年の城下図には,広場の西側のところに時鐘楼ができている。文化年間の城下図には,東浜の北に新湊町が造成され,問屋町ができている。東浜舟入には番所と運上会所が置かれ,船の出入,品物の検査や運上金を徴収した。西の御船蔵の破戸にも番所・漂着番所・日和見番所ができていて,堀溜を隔てたところに大的場がある。寺社役所も馬責場の南にある。同城下図には,東は杣場川に架かる今橋・新橋の東岸の松島の一部まで,西は高橋の西の閻魔堂まで,南は御林の南の観興寺までが描かれている。この頃の武家は916家(分家を含む)で享保年間に行われた人員整理後安永年間にかなりの人(侍)が再び召し抱えられ,また,新長屋・五十間長屋・江戸長屋などができている。天保15年の城下図をみると,城下はずれにあった中ノ村の藤塚が富士塚(藤塚)町となり,東浜村瓦焼の一部が新瓦町に,橋本屋前が塩屋町3丁目に,築地が築地町となっている。侍屋敷も内町(64軒)・浜ノ丁(66軒)・一番丁(32軒)・二番丁(34軒)・三番丁(10軒)・四番丁(43軒)・五番丁(28軒)・六番丁(31軒)・七番丁(38軒)・八番丁(30軒)・九番丁(16軒)・十番丁(10軒)・天神前(57軒)と拡大され,総数459軒となり,寺院67か寺・神社16社が記されている。海辺には漂着番所(大的場西突堤),遠見番所(東浜・北浜),運上会所(東浜),船番所(千代橋詰)が設けられている。弘化年間頃の城下図を見ると,城下町の形態には大きな変化はないが,これまでの城下図が侍屋敷には各住人の名前を書き入れ,商人・職人などの居住地は町名の記入だけであったが,同城下図には各町に主だった商家の屋号が記されている。明治期以後については,明治初年頃の城下図では,内町(曲輪内)や御船蔵付近・天神前付近の侍屋敷地に変化がみられる。中野天満宮の別当寺鶴林寺が廃寺となり,その跡に明治4年に高松医学校ができている。また石清尾八幡宮の別当寺五智院とその末寺6か寺が廃寺となり,馬場先・天神前付近が寂れている。内町(曲輪内)の御連枝屋敷地(松平操邸)に明治4年に高松県庁が置かれ,翌5年に高松取締組(警察署)が家老屋敷に設置されて,官庁街に変わりつつある。この城下町の変化は人口の減少ともなり,明治5年の人口調査で戸数4,171・人口1万8,691で,旧武士たちが城下を離れていったものと思われる。明治4年高松県が廃止されて香川県が誕生し,県庁は高松内町の旧高松県庁を用いた。このとき高松市街地の東西に各戸長事務所が置かれた。同6年当城下は第18大区に属し,内町の常磐橋北詰に区長事務所が設置された。同8年再び香川県となると旧高松県庁と隣接の松平一楽邸を合わせて県庁とした。同年の調査では高松は59町3か村から成り,戸数8,880・人口3万4,201とあり,旧城下町と隣接の3か村を合わせた地域を高松としている。同15年の市街図をみると,旧高松城が陸軍省の管轄地となっている。内町には警察署・裁判所・電信局があり,旧西の丸が徴役場になっている。戸長役場が16か所,小学校が14か所に見える。また香川郡役所が五番丁の浄願寺内にある。同21年三たび香川県となり,県庁を五番丁の浄願寺内に設置した。旧高松城下は香川郡に属し,11か所に役場が置かれている。同23年市制町村制施行により高松市となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7429839