手島(近世)

江戸期~明治23年の村名。塩飽島のうち。幕府領(大坂町奉行・川口奉行・倉敷代官などの支配を経る)。村高は,天正18年検地154石余(田27石余・畑126石余),「天保郷帳」145石余。人名制をとり,本島の年寄・年番の下で各浦庄屋による支配が行われ,寛政年間の島治改革後は年寄が選出交替制となり,本島の塩飽勤番所で政務が執られたが,当村からは年寄は出ていない。人名数は塩飽島650のうち66(古加子46・新加子20)。水主役として御用を勤めるほかは幕府からの課税はなく,封地からの米・麦,山林・塩浜からの収益,他国船の領海操業に賦課される運上銀などが人名の収入となった。宝永元年塩飽島中納方配分之覚によれば,村高136石余から庄屋給5石・当村人名66人分66石が支払われ,残高のうちから高見島人名分30石・尻浜浦新加子分12石があてられ,残り23石余が中納として塩飽島中に納められている。ほかに,山手銀が課せられ,寛文9年の場合で32匁(塩飽島諸事覚)。島の広さは宝永年間で東西10町半・南北20町・島回り2里7町,集落規模は長さ210間・横105間(島々町歩/塩飽島諸事覚)。延宝4年の家数86・人数508,船19(塩飽島巡見帳)。正徳3年の家数110・人数614,船28うち300石積以上1(塩飽諸訳手鑑)。寺院は,正徳年間塩飽島中36か寺のうち安養寺・金輪寺の2寺があり,いずれも本島の真言宗正覚院末。神社は,「宮ノ別当并社人所訳」記載の別当寺をもつ塩飽島中44社のうち明神社4と多珠明神・荒神・権現・恵美須社各1の計8社(塩飽島諸事覚)。西回り航路開設後,人名は廻船業に従事し浦は繁栄したが,江戸後期には廻船業は衰退,職業分化が進んだ。明治元年の小坂騒動を機に土佐藩預り。同年倉敷県,同3年高知県・倉敷県,同4年丸亀県・香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治7年(一説には明治5年)那珂郡に属す。同8年塩飽島が11か村となった際,手島村となる。明治3年人名の領知高没収,朱印高は還納。同5年の戸数123のうち大工職68・農業46・船乗渡世4・漁業1・その他4。大工職はすでに嘉永3年島外稼ぎに出た者44人を数え,船大工の伝統を生かして西日本各地の寺社建築などに腕をふるい塩飽大工の名を馳せた。明治8年の戸数121・人口606(梶山家文書)。明治初期近隣の小手島を牧場として開作(新修丸亀市史)。同22年手島簡易小学校を開設。同23年広島村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7429953 |





