100辞書・辞典一括検索

JLogos

24

東潟元村(近世)


 江戸期~明治23年の村名。山田郡のうち。高松郷に属す。はじめ生駒氏領,寛永19年からは高松藩領。寛永10年讃岐国絵図には,屋島は完全な島として描かれ,その地に東片元の名は見えるが,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」には記載されていないことから,寛永19年松平氏の高松藩領となってからのちに成立したものと考えられる。文化年間から安政年間の一時期は,東・西の潟元村が潟元(潟本・片元)村1村とされている。村高は,「貞享元年高辻帳」107石余,「天保郷帳」135石余,「安政5年高辻帳」では西潟元村を合わせた潟元村として507石余,「旧高旧領」134石余。生駒高俊は,伊勢国津藩の藤堂家の家臣,西島八兵衛を招き,寛永14年香川郡の東浜から山田郡の新川に及ぶ海岸沖に堤防を築かせ,福岡(上福岡),木太,滑浜【すべりはま】(木太村),富岡(春日北地)の新開地新田を開拓(翁嫗夜話)。その堤防に沿って造成された東讃浜街道(下往還・志度街道とも称す)は屋島南麓,相引の海の南岸を通過するが,この生駒家の埋立てのとき,屋島相引の海にも堤を築き,塩田を造成(讃岐大日記)。これまで島であった屋島は陸続きとなり,当時,屋島に造成された塩田4か所(西片本・東片本・赤場崎・屋島浦)のうち,当地に該当する東片本浜からは,寛永19年小物成として塩57石6斗が納められている(小物成帳)。東片本浜は,相引川沿いにあったといわれる(屋島の塩業誌)。寛永20年の大旱魃では餓死者が多く(讃岐国大日記),小村【おもれ】の庄屋田之助による租税二分納法が藩に認められて,同21年以後毎年11月に8分,翌年6月に2分の分納が当地でも慣例となる(木田郡誌)。正保4年藩主松平頼重は,古来の潮の相引く名跡をおしみ,堤を破却して,屋島相引の海を以前のように,復元して相引川とする(讃岐大日記)。慶安元年に東讃浜街道が大路に改修され,寛文7年には松島・州端【すべり】の沖から潟元村の沖まで,さらに東讃浜街道の北方に東西の堤を築き整地された(英公外記)。用水は屋島の南麓に築造された溜池があり,江戸中期の高松藩軍用絵図には,道池(新池),東宮池,丈右衛門池・丈右衛門上池の4つの溜池の名が見える。神社には東照宮権現(屋島神社)・大宮八幡宮(八幡神社)がある。東照宮は,寛永年間松平頼重が宮脇村に建てていた徳川家康の祠を文化12年松平頼儀が,現在地に移転したもので,馬場先の相引川には神幸橋が架かる。明治4年冠岳神社と称し,同7年屋島神社と改称,同時に県社に列し,同15年松平頼重が合祀される(木田郡誌)。大宮八幡宮は寛文の「大政所書上」によれば,古く壇浦(檀ノ浦)の宮の窪に祀られていたが,その後藤目の地を経て,現在地へ遷宮されたとあり,「紫雲山極楽寺記」にも7回の遷宮が記され,当地での創建は,同記に「承平六年八月勧請」とあるが,現在地から室町期の古瓦が出土しているので,それ以前のことと考えられる。「全讃史」に「東潟元八幡,祭米五斗五升」とあり,郷社として氏子は,古高松村・新田村(久本・公文を除く)・屋島村にまたがる(古高松郷土誌)。文化5年10月24日,伊能忠敬による海岸測量は,赤白2組にわかれて行われ,先手の赤組は,当地相引川堤から測りはじめ,屋島西麓を経て浦生・長崎鼻から東麓へまわる。伊能忠敬を含む後手の白組は,香川郡東浜村から潟本村の相引川堤を経て,屋島東麓の壇浦(檀ノ浦)を測り,人家20軒の宮の久保(宮の窪)にて,赤組と合流している(測量日記)。文政10年の庄屋として木村辰三郎の名が見える(御領分郡々大庄屋小庄屋姓名控帳)。天保9年の戸数133(石居128・掘立5)・人口492(男260・女232)である(御巡見一条万覚書)。同時期の石高134石余(御領分明細記)。天保年間頃から当地でも寺子屋教育が普及し明治初期まで存続,寺子屋師匠として,当地東山地神主,磯部栄の名が見える(木田郡誌)。明治4年高松県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治8年の戸数144・人口683,反別24町余(梶山家文書)。明治5年古高松村の妙覚寺に第18仮校舎(のち喜岡寺に移転)に西潟元・屋島・古高松・新田の各村と当村から児童が就学。翌6年当地の本門寿院に同校を移して本校とし,東潟元・屋島の児童を対象に分校芙蓉学校を設置するが,同19年から冠岳小学校となる。同20年西潟元の屋山小学校が西潟元尋常小学校と改称されると,冠岳小学校も廃止された(木田郡誌)。同23年潟元村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7430241