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東浜村(近世)


 江戸期~明治23年の村名。香川郡東のうち。箆原【のはら】郷に属す。はじめ生駒氏領,寛永19年からは高松藩領。村高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」では東浜・西浜として794石余,「貞享元年高辻帳」940石余,「天保郷帳」1,013石余,幕末の香川郡東絵図998石余,「旧高旧領」1,144石余となる。寛永19年「小物成帳」によると東浜分として塩445俵8升(1か月に37俵4升,3斗俵),東浜新浜分として塩39俵1斗8升および銀43匁(塩浜3反3畝の代)を納めている。寛永14年西島八兵衛が香東川の水路を付け替えて東川筋をせき止めた際,御坊川から新川の間の堤防を築いて,福岡・木太・スベリ・春日の新田を開拓した。この時,杣場川の今橋から御坊川の千代橋に至る道筋を堤防を強化するために植樹した松並木にちなみ松島とよんだ。これは志度に通じる浜街道(下往還,東下道)で,「人家商農軒をならべ賑しく,阿波の海道なり,旅舎あり,士大夫より以下豪家の別荘」があった(讃岐国名勝図会)。近世初期には杣場川(玉川)以西の地(のちの塩上町・八坂町・瓦町・多賀町・花園町)も当村に属したが,松平頼重入封後は高松城下の東を今橋と塩屋町までとし,田町・新町筋から東は当村分となった(政要録)。もとは城下の瓦町(西瓦町・東瓦町)も当村の一部で,天保元年地内の一部が高松城下の新片原町・築地町となった。千代橋の西のたもとに船番所があった。生駒氏の時の草創という松島神社境内に奉納された石灯籠の台座に「江戸御手廻中,御駕籠者,文政六年」とあり,出入りの多い街道筋であった。千代橋の上流に架かる御坊川橋のほとりには勝法寺屋敷があった。川は当時楠川と呼ばれていたが,勝法寺にちなんで御坊川と呼ばれるようになった(三代物語)。勝法寺は三好実休の勧請で,実休は寺領150石を寄進した。やがて松平頼重が楠川御坊(勝法寺)を城下の御坊町に移転。勝法寺屋敷(松島坊ともいう)の付近は一面の野菜畑で菽・麦・黍・稷・西瓜・冬瓜・蕪・菜菔・匏・瓜の類を植えていた(三代物語)。杣場川の高橋から御坊川橋に通じる街道は長尾街道(東上道)である。杣場川の河口に架かる新橋(三架の太鼓橋で,橋下を船が出入りしていた)を渡ると,右手に鬼子母神社があるほかは一面の畑であり,左手(北側)には塩田があり,それを区切るように松並木の続く八丁土堤(八丁土手)が東にのび,その東は沖松島と呼ばれる。八丁土堤は「松並つゞきて絶景いはん方なし,初夏より別して北風すゞしく,行てあそぶべし,伝へ曰く此地は奥州松島の景ににたるによって名付たりとなむ」(讃岐国名勝図会)。海中には蛤が多く,干潮の時は沖松島から対岸の屋島山麓まで歩いて渡れたという(同前)。下往還より北,沖松島の干拓は寛文7年であろう(高松市史年表)。沖松島には塩釜神社がある。「三代物語」には沖松島を「シホチニシテ耕ス可ラズ,海ヲ煮テ塩トナスヲ以テ業トス」とある。沖松島の北沿岸塩田は古浜塩田とよばれ,元禄元年竣工で,総面積は18町3反。八丁土堤の北側塩田を福岡西新浜(武藤新開)と呼び,万延元年起工,慶応2年の竣工で,総面積は17町5反である。宝永7年・享保7年には大風雨で堤防が皆決壊し,田野が海と化したという(高松市史年表)。杣場川の今橋から上流を玉川と呼び,安政6年には玉川水門が築かれ,東浜村南部一帯20町の灌漑用水となった(高松今昔記)。玉川は高橋から上流は2流に分かれ,支流は三十郎土堤(松並木があった)を通り,中ノ村を経て霊源寺堀に遡行する。高松城下を守る天然の外濠となっていた。高橋のたもとにある多賀神社(下野国の多賀神社大順坊が当地に滞在中,分霊を勧請)は,昔は現在地より1町ほど南,川の西岸にあり,近辺は御花畑と呼ばれていた。御花畑には生駒氏の別荘があり,高松藩初代藩主松平頼重は老臣彦坂織部(禄高5,000石)にその別荘を与え静観荘と称した。また松平氏の重臣谷将監(禄高2,000石)の別荘詠帰亭もあった。5代藩主松平頼恭が池田玄丈に命じて甘蔗を栽培させたのも,当村の御花畑である。城下に近接し牢人株の者が多く居住し,宝暦年間の「郷中帯刀人別」(香川郡志)には吉田作之丞をはじめ8名が見える。また宝暦年間の政所は木村半三郎で御船手浦政所役儀を仰せつかっている。組頭は六兵衛・弥次兵衛・助九郎・伝次郎。文政年間の大庄屋は木村善兵衛,嘉永年間の政所は木村半三郎。地内の十番長屋の地には江戸期に町内番所や町木戸があり,瓦焼の地は生駒氏時代の斬罪場で,のち同所で千日供養とするようになった(高松地名史話)。城下にあった長屋(江戸長屋・使者長屋・お加子長屋・修理様長屋・五十間長屋など)が明治維新後1~10の番号を付して呼ばれるようになり,当地の新長屋が十番長屋と呼ばれるようになった。明治2年の当村には伝馬所があった。伝馬費は米9石・麦12石(補米7石・補麦12石)・取扱人2人(給米3石)である(高松市史年表)。明治4年高松県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治8年の戸数1,069・人口3,684,反別130町余(梶山家文書)。同11年旧城下の新片原町を合併。また,同年東浜村と新瓦町を合わせて連合戸長役場を設置したが,同15年新瓦町を分離。同17年には東浜村と福岡下村が連合戸長役場を設けた。明治11年福岡村と地内の福岡・沖松島・八丁土手を合わせて福岡村と称しており,同14年同所が志度街道を境に福岡上・福岡下に分村している。同12年下往還の要路,千代橋が石橋に架け替えられた。同18年砂糖づくりの先覚者向山周慶と関良助を祀った向良神社が建てられた(現松島町2丁目)。明治10年福浜小学校,同18年玉川小学校が設立され,同20年玉川小学校は東浜尋常小学校と改称。明治23年一部(十番長屋・瓦焼)は高松市の通称町名十番長屋・瓦焼となり,そのほかは東浜村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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