茂浦(近世)

江戸期~明治23年の村名。塩飽島広島のうち。幕府領(大坂町奉行・川口奉行・倉敷代官などの支配を経る)。村高は,天正18年検地29石余(田11石余・畑18石余),慶長11年検地35石余(田12石余・畑23石余),「天保郷帳」32石余。本島の年寄・年番の下で支配が行われ,人名数は塩飽島650のうち14(古加子10・新加子4)。水主役として御用を勤めるほかは幕府からの課税はなく,宝永元年塩飽島中納方配分之覚によれば,村高23石余から人名14人分14石のほかに庄屋給1石5斗が支払われ,残りの7石余が中納として塩飽島中に納められている。ほかに塩飽島中に納めた山手銀があり,寛文9年の場合で60匁2分(塩飽島諸事覚)。集落規模は宝永年間で長さ67間・横39間(島々町歩/塩飽島諸事覚)。延宝4年の家数57・人数314,船24(塩飽島巡見帳)。正徳3年の家数72・人数386,船18うち40~300石積13(塩飽諸訳手鑑)。寺院は,正徳年間広島6か寺のうち正福寺があり,本島の真言宗正覚院末。正福寺は弘法大師の開基と伝える。神社は「宮ノ別当并社人所訳」記載の別当寺をもつ広島11社のうち明神・天王・荒神・大歳神の4社(塩飽島諸事覚)。西回り航路開設後,人名は廻船業に従事し浦は繁栄したが,江戸後期には廻船業は衰退,職業分化が進んだ。江戸期には鹿が多く麦畑が被害を受けたため,たびたび「鹿おとし願」が出された。一時期岡山藩の狩場だったともいわれる(新修丸亀市史)。明治9年当村の有志により高さ2mの鹿の霊魂塚が建てられた。幕末,塩飽島民の優れた操船技術は幕府海軍に重用され,万延元年咸臨丸のアメリカ渡航に際しては水夫4人が当村から出た。また海軍伝習生で勝海舟の供となった平田源次郎は当村の出身。明治元年倉敷県,同3年高知県・倉敷県,同4年丸亀県・香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治5年の戸数75のうち大工職40・船乗渡世17・農業17・その他1。大工職は西日本各地の寺社建築などを手がけ,塩飽大工の名を馳せた。同7年(一説には明治5年)那珂郡に属す。同10年頃小学校が開設されたが,後年廃止。同23年広島村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7430510 |





