喜多郡

明治11年郡区町村編制法が施行され,喜多郡が改めて発足。翌年1月大洲町に郡役所が置かれた。成立直前は愛媛県第17大区に属した。同19年の戸数1万5,547・人口7万1,244。明治22年町村制が実施され,近世末期に大洲城下町ほか83か村であったものが,大洲・長浜・内子の3町と喜多灘・櫛生【くしう】・出海【いずみ】・豊茂・相生【あいおい】・柴・滝川・粟津・三善【みよし】・上須戒【かみすかい】・久米・平・喜多・南久米・菅田・新谷【にいや】・喜多山・柳沢・田処【たどころ】・大成【おおなる】・蔵川・山鳥坂【やまとさか】・奥南【おくな】・大谷・宇和川・満穂・立川・五城・村前【むらさき】・大瀬・天神・御祓【みそぎ】・五十崎の33か村となる。なお,中山村は下浮穴郡に編入。明治32年平野村が西宇和郡より編入,同41年伊予郡下灘村の一部が当郡満穂村に編入した。同年平・喜多の2村が合併して大洲村となり,同42年には奥南・山鳥坂の2村が合併して河辺村となり,田処村は柳沢村に編入。大正9年五十崎村が町制を施行,同10年大成村と蔵川村が合併して大川村となり,同11年には柴村と滝川村の2村が合併して白滝村,豊茂村・相生村が合併して大和村となり,同年喜多山村は新谷村に,同14年南久米村の一部は大洲町にそれぞれ編入された。こうして大正末期には4町26か村となった。昭和4年には村前村は三分され,天神村・大瀬村・五城村にそれぞれ編入した。同9年大洲村・久米村の2か村が大洲町に編入,同18年宇和川村・大谷村と河辺村の一部および上浮穴郡浮穴村の一部が合併して肱川村となる。昭和26年には肱川村の一部が河辺村となる。昭和29~30年には市町村合併が進み,大洲町と平野・粟津・三善・上須戒・南久米・菅田・新谷・柳沢・大川の9か村とが合併して大洲市となり,長浜町は喜多灘・櫛生・出海・大和・白滝の5か村を,内子町は満穂・立川・五城・大瀬の4か村を,五十崎町に天神・御祓の2か村をそれぞれ編入し,肱川村は東宇和郡貝吹村・横林村の各一部を編入した。中央部に大洲市が成立したため,当郡は内子・五十崎の2町と肱川・河辺の2村からなる東部と,長浜町からなる西部の2地域に分断されることになった。昭和34年肱川村が町制を施行し,現在は4町1村からなる。明治37年の戸数1万6,152・人口7万8,119(男3万8,725・女3万9,394),大正10年の戸数1万6,708・人口8万6,282(男4万2,539・女4万3,743),昭和25年12月の人口10万8,202(男5万3,028・女5万5,174)。内山盆地を中心に明治・大正初期に最盛だった製蝋や大洲盆地を中心に大正期に最盛だった養蚕はともに衰え,伊予灘沿岸の柑橘生産が発展した。肱川の水運が中心となっていた郡内の交通体系は,道路の発達と大正7~9年長浜~大洲~内子間の愛媛鉄道開通,昭和10~14年松山~大洲~八幡浜間の国鉄予讃線の開通により,陸運に切り替えられた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7431651 |





