北野村(近世)

江戸期~明治22年の村名。宇摩【うま】郡のうち。はじめ松山藩領,寛文6年一部が八日市一柳氏領。同10年幕府領は西条藩領,宝永元年一柳氏領が幕府領となる。村高は,「慶安郷村数帳」では729石余,うち田608石余・畑120石余,「元禄村浦記」729石余,「天保郷帳」805石余,「旧高旧領」では上北野村79石余,下北野村717石余。上・下北野村の分記は寛文10年幕府領が西条藩領に編入された時藩領分77石余を上北野村,一柳氏領651石余を下北野村と称したことに由来するが,両村の土地・人員は交錯し,境も判然とはせず,郷帳類には北野村1村として記載され,明治初年の「旧高旧領」「宇摩郡地誌」では分記されている。幕府領は,享保6年の家数137軒・人口790,郷蔵1。また文政8年の「村々様子大概書」では村高717石余,田50町余・畑26町6反余,家数196軒・人口868,牛91・馬5。農間に男は薪樵,女は木綿を織って売った。西条藩領は天保13年頃の「西条誌」によれば,村高78石余,家数17軒・人口56,物産は米麦のほか,鮎・鰻・蕨・薇・松茸など。寺院は修験金伽羅寺。嘉永6年異国船来襲に備え,川之江代官所が幕命を受けて城山砲台構築の際,当村の幕府領分では金35両の上納金を献上,また慶応2年6月の長州征伐に伴って代官所守備の民兵を集めた際,大砲方として当村真鍋良平の名が「役用記」に見えている。同4年正月に土佐(高知県)藩兵によって川之江代官所が無血開城となり,当村幕府領分は土佐藩支配下となる。明治3年12月,幕府領は倉敷県(現岡山県),同4年7月丸亀県,西条藩領は西条県となり,同年11月両村ともに松山県,同6年愛媛県に所属。「宇摩郡地誌」によれば,村の広さは東西24町・南北2町20間,戸数218・人口1,087,牛120・馬8,物産は米麦のほかに菜種子・蕃薯・藍・砂糖・芋塊など。明治22年関川村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7431672 |