唐人町(近世)

江戸期~明治22年の町名。江戸期は松山城下の町名の1つ。明治18~22年は松山を冠称。江戸後期,東は持田村,西は小唐人町・三番町,南は夷子【えびす】町・八坂町,北は南京町・持田村に接した。城下の東部に位置し,外側【とがわ】地区における町人街の中心。初見は寛永4年の「松山城図」で,元禄期の記事を載せた「松山町鑑」では,外巡町23町のうちに西から東へ大唐人1丁目・大唐人中之町・大唐人上之町・大唐人末新立町の名が見える。同7年の町鑑では大唐人1丁目の本家39軒・借屋29軒,大唐人中之町の本家53軒・借屋37軒,大唐人上之町の本家63軒・借屋155軒,大唐人末新立町の本家72軒・借屋86軒,いずれも唐人町組に属した。大唐人といったのは,小唐人町と区別するためであった。町民は,藩庁の庇護をうけず,拘束もすくなく自由に活動ができ,藩の保護・統制のもとにあった古町の商人を抑えた。寛政年間の茶屋吉蔵は,その代表者の1人で,姓は武智氏,一時百済氏を称し,藩から大年寄並の待遇を受けた。俳諧・和歌・茶道・書道などにも通じ,文雅の士と称せられ,二六庵竹阿・小林一茶らも茶屋邸に投宿した。また,江戸後期の井門【いど】九渓は薬種商三原屋を経営して,その名を知られた。天保6年大唐人末新立町を唐人町4丁目,翌7年に大唐人中之町を唐人町2丁目,大唐人上之町を唐人町3丁目と改称。明治6年愛媛県に所属。「温泉郡地理図誌」によれば,1~3丁目の町の規模は315間,戸数297・人口1,103,うち士族19。明治4年ひとのみち教団(現PL教団)の教祖御木徳一が当町に生まれた。同22年松山市の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7432685 |