丸之内(近世)

江戸期~昭和41年の町名。江戸期は宇和島藩の宇和島城下の町名。天正3年西園寺宣久が板島丸串城(のちの宇和島城)を居城とした時,小城下町の形成に着手,丸之内地域もその中に入っていたと考えられる。天正15年戸田勝隆の入城,文禄4年藤堂高虎,慶長13年富田信高の入部とその支配の時代に整備された家中町となり,元和元年の伊達秀宗の入部に引き継がれた。宇和島城はその平面は不等辺五角形をしており,北西方の2辺は海,残る3辺は海水を取り入れた城濠を隔てて城下町に接していた。丸之内はその城郭内に造成され,寛文以前には藩主の居館であった三の丸・馬場・御馬屋・御蔵役所・御作事役所・材木方役所・竹方役所・御舂屋などの施設が見え,元禄16年の城下絵図によると,丸之内には,屋敷27・御番屋・御備長屋・御材木蔵・馬場などが見え,城下町との通路には追手門・豊後橋・搦手門などがあった。文久年間の城下絵図でも,丸之内はさしたる変化はないが,その周辺は海岸低地を埋め立てた新田が多く見られる。明治18~22年宇和島を冠称。同22年宇和島町の大字,大正10年からは宇和島市の町名となる。明治期の当町は1区から9区まで区分されていた。「宇和島の明治大正史」によると,城山東南部の追手門を起点に濠が続き,濠の内側には長い堤があり,雑木や小笹が茂っている。士族屋敷に限って庭に植木が黒々と茂り,濠の通路は豊後橋のみである。明治初年には下手付近一帯の広場が西洋式の練兵場となっていたとある。町の中心にありながら,寂しかった町が急に変貌したのは,明治33年からの濠の埋立てによる。その完成は,大正期を経て昭和30年代に及ぶ。公共施設には,城山南麓の旧御作事所跡に,明治初期から昭和15年まで第二小学校があり,城山南麓には大正3年護国神社が造営された。同社は秀宗・村候・宗紀・宗城の4藩主の霊を祀る。大正13年宇和島最初の映画館「鶴島館」が,城山東麓には翌14年市庁舎が落成した。同舎は総額11万余円を投じて建てられた耐震耐火構造の鉄筋コンクリート造りであった。その隣の市公会堂は,宇和島出身で当時宝酒造の社長であった大宮庫吉の寄金によって昭和33年建設されたもので,別名大宮ホールともいう。大宮ホールの南に通じる路地は城濠埋立て後形成された新開地で,大正期はカフェーが軒を並べ,カフェー横町といわれた。昭和4年の「うわじま」によると,法人営業の商工業7・個人営業の商工業者89で,業種別には食品小売店や飲食店が目だつが,旅館も多く,卸・卸小売商が15戸を数え,工場も多かった。工場には,石丸製綿所・宇和島罐詰・宇和島材木・末光製糸の名が見える。城山の南部が発展するにつれ,市街の南北を結ぶ通路が必要になり,明治41年頃,当町の和泉幸太郎により「内港の渡し」が始まった。親子3代にわたる渡船も,昭和35年内港の埋立てによって消滅した。昭和20年の戦災では町の大部分は類焼をまぬがれた。同37年の世帯760・人口2,566。同41年中央町・新町・本町追手・丸之内1~5丁目となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7433546 |