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吾川郡


「吾妻鏡」文治元年12月30日条に「令拝領諸国地頭職給之内,以土佐国吾河郡,令寄附六条若宮給」とあり,源頼朝は祖父為義の遺跡に石清水八幡宮を勧請して六条若宮(左女牛八幡宮)を創建し,中原(大江)広元の弟季厳を別当職に補任,当郡の地頭職を寄進した(国史大系)。以降この六条若宮の別当職は醍醐寺三宝院の管轄下にあり,当郡も実質的には三宝院の支配下にあったものと考えられる。文治3年10月26日には改めて「土佐国吾河郡」など4か所が六条若宮に寄進された(吾妻鏡/国史大系)。「吾妻鏡」建久3年10月15日条によれば,「左女牛若宮領土佐国吾河郡」に対する公事を京都大番役のみに限り,六条若宮別当季厳の沙汰として催勤するよう土佐守護佐々木経高に命じており(国史大系),これは六条若宮に対する優遇処置と考えられる。なお同書建久元年4月19日条に引用された同日付の内宮役夫工作料未済成敗所々注文には「土佐国 吾河 遣消息於若宮別当法橋」とあり,伊勢内宮の役夫工米が未済となっており,当郡内の在地勢力の台頭がうかがえる(同前)。下って室町期の足利義教の袖判のある醍醐寺方管領諸門跡等所領目録には「一,左女牛若宮別当職,社領土左国大野・仲村両郷……美濃国森部郷・源氏・千種両町」とある(醍醐寺文書/大日古19-1)。この大野・仲村両郷は当郡の南部(現伊野町以南)にあたり,鎌倉初期の寄進は実質的には当郡南部であったことが知られる。当郡の北部には南北朝期になると吾川山荘が成立するが,それまでは開発が進んでいなかったのであろう。南北朝期,吾川郡下も両朝に属して攻防を繰り返した。建武3年正月7日,高岡郡の津野・佐伯(堅田)・三宮氏の北朝軍が南朝の水軍拠点であった浦戸の守護目代館と竹田氏を攻略して戦火は吾川郡にも広がった(同年正月8日付佐伯経貞軍忠状/拾遺)。同年2月には北朝軍が高岡館に集結し,大高坂城を中心にして両朝の対立は激化してゆく(同年2月22日付佐伯経貞軍忠状/同前)。暦応3年正月28日の佐伯経貞軍忠状によれば,北朝方は南朝方の最大拠点である大高坂城に攻撃を加え,南朝軍は花園宮・新田氏・金沢氏・河間一族の援軍を受け,「大野・仲村名主庄官以下凶徒等率数千騎寄来取陣於潮江山」とあり(西岡家文書/拾遺),最後の激突が行われ,当郡大野・中村の名主荘官層は南朝方に,弘岡の吉良氏は「此等次第,吉良中務尉,佐竹一族彦三郎殿見知之上者,為後証」とあるように北朝方に属した(下元家文書/拾遺)。この合戦で大高坂松王丸が戦死し,これ以降南朝方の勢力は衰退していった。暦応3年12月19日の細川定禅所領宛行状によると「吾河山預所職事為兵粮料所々預置也」とあり,堅田又三郎に宛行われており,吾北【ごほく】・池川方面も北朝方の支配下に組み込まれていった(拾遺)。貞和3年11月15日の年紀のある小村神社(現高岡郡日高村)棟札銘に「彼年毎度為吾河山別府山横河山以下(ママ)々所役国衙徴下被加修理事先例也」とあり,吾河山別符は国衙の諸役を勤仕する土地であった(木屑)。文和3年2月晦日の吸江庵妙葩首座宛三浦下野守道祐寄進状によれば,道祐重代相伝の私領である「土佐国吾川山庄内上谷川村」を「美作国西高田庄内甘波村並安名」の替えとして吸江庵(現吸江寺)に永代寄進している(吸江寺文書/拾遺)。そののち室町期の応永4年5月14日の某施行状には「宝幢寺領土佐国吾川山之内桃木谷事,任本主三浦下野守寄進状,先国師避状明鏡之処,庄主違乱云々」とあり,荘内に混乱が生じてくる(同前)。戦国期は吉良氏が当郡南部を勢力下におき,弘岡の吉良城を居城とする。吉良氏は源希義の後裔と伝承されているが,明確ではない。永正5年5月(一説に同6年5月),吉良宣経は本山・大平・山田の諸氏と連合して,細川氏の配下であった長宗我部兼序を岡豊【おこう】城に攻撃して敗死させる。そののち吉良氏は領国経営に専念,吉良条目を制定し周防国から南村梅軒を招聘して南学(朱子学)を広めたと伝える(吉良物語)。永正16年9月18日の年紀のある若一王子(現春野町芳原)の棟札に「若一王子大檀那隠岐守(大平)元国」とあり(蠧簡集),吉良氏は大平氏の支配下にあったと考えられる。以降吾川郡南部は本山・一条・長宗我部各氏の侵略を受けて攻防の戦場となる。特に本山氏と長宗我部氏の土佐統一の主導権争いは熾烈をきわめた。本山氏は,長岡郡本山を本拠として,生産力の高い吾南平野,海路交通の拠点である浦戸に進出しはじめた。永正~大永年間頃には朝倉を手中に収め,朝倉城を南部の拠点として荒倉山を境として吉良氏と対峙した。本山氏が吉良氏を滅ぼしたのは天文9年と伝えるが(編年紀事略),天文9年11月19日の年紀のある弘岡荒倉神社(現春野町)の棟札に「上棟荒倉諏訪大明神大檀越清茂」とあり,本山清茂(梅慶)の名が見えることから,天文9年以前に吉良氏は滅亡したと考えられている。当郡北部は天文初年に上八川の和田氏が片岡氏に敗れ,片岡氏は北部に勢力を伸張した(上八川村史)。本山氏は仁淀川を渡り高岡郡津野氏の援軍要請で津野領に進出し,一条氏と戦うが敗れた。一条氏はこれを機に東進し吾川郡南部を支配下に収めるが,弘治年間伊予国侵略の失敗で後退し,本山氏が奪回した。しかし,永禄3年5月,長宗我部元親に長浜戸ノ本の合戦で敗れ朝倉城に敗走,配下の諸将が離反したため本山に退き,結局長宗我部氏に降伏した。元親の弟親貞が吉良氏を継いで吉良城に入り,北部の片岡氏も長宗我部氏に降って当郡全域は長宗我部氏の支配下に置かれた。当郡に対する長宗我部氏の検地は天正16~18年と慶長2年にわたって実施され,その結果は28冊の地検帳に記されている。当郡の検地面積は2,094町8反余で,そのうち「直分」「散田」とある長宗我部氏の直轄地は56町9反余(全体の約3%)である。一方旧国人の所領が多く,吉良氏は当郡・香美郡・高岡郡にかけて1,324町7反余,片岡氏は当郡・高岡郡にかけて1,051町余,香宗我部氏は当郡・香美郡にかけて542町4反余を有した。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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