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吾川郡


慶長5年関ケ原の戦に長宗我部氏は西軍に属して敗れ,除封となった。長宗我部氏の居城浦戸城の明渡しに対し,一領具足衆が反抗して浦戸一揆が起こったが,桑名弥次兵衛の策略で開城し,一揆は武力鎮圧され,一領具足衆の首273が浦戸ノ辻にさらされた。土佐の新国主となった山内一豊は翌6年浦戸城に入城したが,同8年新たに大高坂山に築いた高知城に移った。2代藩主忠義の信頼を受けた野中兼山は新田開発に力を注ぎ大きな成果を上げたが,当郡南部の平野も兼山によって開発された。仁淀川に八田堰とも呼ばれる弘岡堰を構築し,分水は南東に流れ,行当の切抜きを通り弘岡上村に出た弘岡井筋は新川で閘を設けて低落を防ぎ,新川川はさらに東に流れ,秋山,諸木を経て唐音の切抜きを通り,長浜村に出て浦戸湾に注ぐ。この工事は慶安元年から5年を費やして完成し,当初は堰230間(418m)であったが,のちに250間(450m)と補強工事が行われた。弘岡井筋は「南海之偉業」によれば「深所一丈二尺二寸,浅所六尺,広平均六間,流勢緩ナラズ,急ナラズ,水ハ清ニシテ淡ナリ,延長四里ニ余ル」といい,大工事であった(皆山集)。この灌漑工事によって,井下本田高8,560石余,うち新水田は約65%の5,102石余,井下9か村に510町歩の新田が生まれた(弘岡志企/土佐国群書類従拾遺)。また同水路は舟便や材木の筏流しに使用され,物資集積の中継地として森山村に新川町が成立した。当郡の村数・地高は,寛永地検帳では,本田2万1,421石余・新田新潮田392石余で計2万1,813石余,村数68か村(南路志),寛文7年の郷村石付では2万1,372石余・68か村。「元禄郷帳」では2万1,750石余・69か村とあるが,寛保3年の郷村帳では同高のうち2,699石余が荒,ほかに新田8,915石余があり計3万665石余と見える。「天保郷帳」では2万6,222石余・69か村。明治3年の郷村帳では本田2万1,374石余・新田2万868石余で計4万2,242石余。郡内に安居銅山(安居鉱山)がある。この銅山は正徳3年(4年ともいう)江戸留守居役久徳安左衛門が幕府に開発を願い出て許可を受けた。元文4年の届書に安居銅山が見えないので一時期廃坑になっていたと考えられるが,「池川年代記」によれば文化15年5月に「安居御留山の内銅山御開掘有之,右場所清方被仰付」と見え,再興されている。文政7年6月27日大風雨と山潮で潰家13軒・潰蔵5軒,死人21人・怪我人10人という大きな被害を受けたが採鉱は続き,天保12年になって幕府に休坑を願い出ている(工業経済史)。なお全盛期の文政~天保年間には採鉱夫800名に及んだという。吾川郡,特に北部は山間渓谷地域が多く耕地に恵まれないため,山畑を利用して楮・三椏を栽培し,商品紙の生産を副業とした。なかでも伊野村・成山村は御用紙漉きの生産地であった。御用紙は七色紙と称し,黄紙・浅黄紙・桃色紙・柿色紙・紫色紙・萌黄紙・朱善寺紙からなる(伊野町史)。七色紙の紙漉技術は新之丞または彦兵衛が成山に来村の折,安芸国虎の次男家友に伝授したのが創始と伝える。この七色紙は,山内一豊に献上されて藩の御用紙となり,幕府などの献上品となった。このため藩は七色紙の技法が他藩に漏れることを恐れて厳重に保護した。紙の生産によって山間生活は維持されてきたが,宝暦2年藩は国産方役所の設置によって平紙の自由販売を禁止し,指定問屋による専売制を施行,このため山間農民は困窮していき,江戸中期から幕末にかけて各地に一揆が蜂起した。天明7年には池川紙一揆が発生した。専売紙問屋京屋常助の買上価格が安く,天災による凶作が続き餓死者が出るようになったため,生産者は藩庁に対して専売制改正を愁訴したが黙殺されたことから,池川・名野川郷民約700名が隣国伊予に逃散した。郷民は久万村(現愛媛県久万町)の大宝寺に集結したため,伊予松山藩と土佐藩で交渉を行ったが,帰国を拒否,西光寺と常通寺の説得で郷民の安全を約して帰国させたが,一揆の首謀者は斬られた。しかしこの事件で藩庁は国産方役所と指定問屋制を廃止した。天保13年7月には名野川逃散一揆が発生した。天保3~8年に旱魃と飢饉が続き,名野川郷番頭大庄屋小野庄右衛門による貢物過分取立ての失政に端を発して,藩庁の対応に不安を抱いた郷民は逃散を始め,その数329人に達し,久万の大宝寺に集合した。土佐藩は追捕隊300人と鉄砲50挺をもって包囲し,郷民を強制的に土佐へ護送した。この結果,庄屋は罷免,一揆の首謀者11名が追放された。国境に近い用居【もちい】には番所が置かれ,大崎・池川には辻番所があり,警備にあたった。逃散のほか幕末には勤王党の志士らが長州への脱藩を試みたが,失敗した者もあった。元治元年新居【にい】村の郷士中島与市郎は同志2名と仁淀川に沿って長州への脱藩を試みたが,大崎の辻番所で咎められ,番役人を殺害して国境に向かったものの,中島は歩行困難となって同志と別れ,水ケ峠の大師堂で捕吏に囲まれて自刃した(維新土佐勤王史)。明治4年には池川郷の農民竹本長十郎を首謀者に,新政府の徴兵制に反対し,加えて四民平等反対・異国人排斥・旧藩知事復帰を要望して,池川・名野川の農民が集結する膏取一揆が発生した。これに対し,県庁は参事林有造を派遣して竹本長十郎ら5名の首謀者を捕えて斬首に処し,一揆を鎮圧した。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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