薊野村(近世)

江戸期~明治22年の村名。土佐郡のうち。土佐藩領。村高は,寛永地検帳347石余(南路志),寛文7年の郷村石付には一宮【いつく】のうち「莇野」と見え同高,寛保3年の郷村帳351石余,「天保郷帳」では「莇野村」と記され681石余,明治3年の郷村高帳では919石余(本田351石余・新田568石余)。元禄地払帳によれば,本田345石余うち一宮社領78石余・天王御馬屋敷4斗・長福寺領4石余・神宮寺領5石・乾庄右衛門知行67石余・永吉六之介給1石・天王佾屋敷5斗余・御蔵知187石余,新田495石余うち見竜院領知30石・間十右衛門領知42石ほか3人の領知,一宮社領8斗余・長福寺領6升・御貢物地381石余。寛保3年の郷村帳による戸数95・人数433(男246・女187),牛2・馬43。なお寛文4年の土佐国知行高村数之帳には一宮村・久礼野・莇野1,420石余と見え,「南路志」には,当村は一宮のうちと見えるが,「土佐州郡志」は「莇野庄」とし,その位置などについては「去府城東北二十町,東至一宮村,西至鉄砲築地番屋之岡,南限陽貴山,北至土佐山,東西十四町・南北拾五町,士民百余戸」と見える。寺社に天台宗見竜院,臨済宗相国寺派国清寺,のちの掛川神社にあたる牛頭天王社,星神社にあたる明見大明神社などがある。村内西の清作谷に山本与次郎砦と伝える古城跡があり,また明見谷・銭神谷・清作谷・大穴山の松樹は私の伐採を禁じられていたという。なお,天保14年の当分覚書によれば,村内に御立藪があり,藩主御手許の矢や山内容堂稽古矢に使用されている(林業経済史)。明治4年高知県に所属。同5年揚貴山に薊野小学校開校。自由民権期には一宮・江ノ口・薊野の有志で城北自由党を結成し,演説会や懇親会を開くなど活発な運動を繰り広げた(土陽新聞など)。また同20年の三大事件建白運動では,薊野村組合戸長も他村戸長とともに連署建白するなどの動きがみられる(土陽新聞)。明治22年一宮村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7434095 |