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馬路村(近代)


 明治22年~現在の安芸郡の自治体名。馬路・魚梁瀬の2か村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。明治24年の戸数288・人口1,343(男702・女641),厩240。古来当村から安田村に至るには,日裏より七人みさきの前を通り,馬路峠を越え中山村日々入を過ぎ,小川の明神口―与床―服部―別所―上代―内京坊を経て東島から安田川を渡り西島へ上り,堤防の上を通り,庄田の上から安田村の乗光寺の前へ出ていた。明治18年中山村まで安田川の西岸へ6尺幅の道ができたのに続き,同27年中山村の小川―船倉―瀬切を経て馬路に至る道幅1.8m・長さ6,249mの道路が開通した。また,同44年高知大林区署はこの道路と並んで田野を起点として,安田より中山を経て馬路村に達する森林軌道を敷設。大正3年より官材運搬の余力に民間の生産物も運搬することを許可し,人々の便乗も損害賠償に応じないことを条件に許したので,交通が非常に便利になった。馬路から魚梁瀬への往還は,日裏から影へ渡り,中ノ川,川平を経て峠を越し,谷山から魚梁瀬へ出ていた。大正3年に馬路~魚梁瀬間と,大正7~8年に魚梁瀬~石仙間の軌道敷設により田野~石仙間41.59km余の森林軌道が完成した。馬路尋常小学校は明治23年落合に藁葺の校舎を建築し発足,同32年影集落へ移転。明治29年5月馬路小林区署ができ,のち魚梁瀬営林署の管内もあわせて管理することになった。大正13年官制改革により馬路営林署となり,昭和4年魚梁瀬営林署が新設分離,昭和54年2月末日馬路営林署は魚梁瀬営林署へ統合された。昭和7年頃の資料によれば,面積10.63方里,田69町・畑177町,戸数593・人口2,663,物産は農産6万201円・畜産1,878円・林産1万6,224円・工産252円,住民の多くは営林署の仕事に従事しているとある(県誌)。同11年の生産総額22万6,808円うち農産6万3,708円・畜産3,323円・林産15万6,144円・工産3,633円,主要生産品は木材・木炭・米(経済一覧)。電話通話は昭和8年に開始,同9年電話交換を始めた。電信は安田郵便局から配達されていたが,昭和10年開通。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7434442