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高岡郡


関ケ原の戦功により山内一豊が土佐の国主として入国し,佐川に深尾重良,窪川に山内(本姓林)一吉を配した。はじめ両地には城を構えたが,元和元年の一国一城令をうけて両氏は土居付家老となった。土居付家老として両氏はともに領内の裁判執行権を保持して独自の支配を強化していったが,窪川5,000石・35か村を領した山内氏は,享保2年勝興が幼少で病没し6代で断絶した(窪川町史)。深尾氏は佐川1万石・高吾北18か村を領して明治まで11代268年間を支配したが(佐川町史),安政の改革によって既得の権能を喪失し,以降郡奉行の支配が及んで領民は二重の支配を受けた。須崎には深尾氏が船奉行・水主を置き,御船倉があった。藩は,初期には代官を置き,その後は郡奉行と浦分を支配する浦奉行を間断的に置いたが,嘉永6年から郷分(村方)と浦方を一括支配する郡奉行所を同地に常置した。当郡の村数・地高は,寛永地検帳では,本田5万6,184石余・新田新潮田1,266石余で計5万7,450石余,村数201か村(南路志),寛文7年の郷村石付では5万5,945石余・202か村。「元禄郷帳」では5万7,328石余・220か村とあるが,寛保3年の郷村帳では同高のほかに新田2万7,552石余があり計8万4,881石余と見える。「天保郷帳」では7万2,984石余・220か村。明治3年の郷村帳では本田5万5,940石余・新田5万1,153石余で計10万7,098石余。新田開発は,まず江戸初期の執政野中兼山が推進した。承応3年仁淀川の鎌田堰工事が着工され明暦2年に完成をみたが,その後も井筋の工事を継続して高岡平野に多くの新田が開発されていった(土佐市史)。さらに文政5年には商人を郷士に登用して,彼らの資力による高南台地の開発を奨励した。この郷士を仁井田郷士・窪川郷士という。浦方は,宝永4年の津波で壊滅的打撃を受けるなど,津波などの災害に悩まされたが,土佐は黒潮の潮流に恵まれるため,当郡浦方でも鰹漁が栄え鰹節の産地となった。文政5年の諸国鰹節番付表によれば,宇佐節・福島節・須崎節・井ノ尻節・与津節・志和節・矢井賀節と高岡郡諸浦の鰹節が上位を占めており,鰹節は藩の重要な財源ともなっていた。なお土佐節の改良は,文化年間,宇佐の播磨屋亀蔵と佐之助によってなされたという(改良土佐節の研究)。江戸中期になると,藩の御用紙専売制に対する不満や天災・飢饉で山間村落は困窮し,郡内にも一揆や騒動が起こった。元文5年と延享5年の2度にわたって長者村騒動が起こり,宝暦元年に別符山九ケ村一揆,同5年には津野山一揆,そして天明7年には池川・名野川逃散,同8年別枝村騒動・三ツ野村騒動・越知村騒動と相次いで発生したが,そのたびに藩は一揆の首謀者を斬罪にして鎮圧した(土佐藩農民一揆史考・佐川町史)。幕末に入ると,尊王思想は郷士や庄屋層の間に高まり,天保12年新居【にい】村の細川庵常の手になる同盟談話条々51か条や安政4年郡奉行所での吉村虎太郎呼捨て事件を経て,庄屋たちは結束していった。文久元年土佐勤王党の結成には郡内の志士も参加したが,天誅組の吉村虎太郎や池田屋事件の北添佶磨をはじめ,禁門の変や野根山二十三士などに加わって若くして散った。一方,藩は文久3年須崎に3砲台を築造し,与津・志和・上ノ加江・久礼・野見・福島・宇佐の諸浦海岸の高峰には火立場を置き,異国船渡来に備えた(憲章簿)。しかし慶応3年には須崎港にイギリス公使パークスが軍艦を率いて入港し,外国交渉が海上で行われた。維新の動乱に際して,明治元年には朝命を奉じて伊予松山城の接収に深尾氏が出兵,さらに土佐藩総督として深尾丹波が迅衝隊を率いて東征に参加し各地を転戦した。同4年12月には新政府の徴兵制に反対して,当郡と吾川郡の仁淀川上流を中心に膏取一揆が起こっている。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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