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田村荘(古代~


 平安期~室町期に見える荘園名。香美郡のうち。承暦3年済遍が空海の遺稿などを集めて編纂した「続遍照発揮性霊集補闕抄」に収められた空海の弟子真体の願文に,「謹以天長三年十月八日,先人所遣,土左国久満并田村庄【……】永奉入神護寺伝法料」とあり,亡妹の七七日の忌に当荘などが神護寺伝法料として寄進されている(平遺4428)。下って元亨2年8月16日の西園寺実兼処分状によれば,子の右大臣(今出川兼季)に処分された所領中に「一,土左国田村庄」とあり,後嵯峨院の時,「被顛倒国衙」故親家が相伝の文書をもって当荘を西園寺家に寄進し,預所職に補任されることを懇望したので勅許があったと記されており,この時本家と後嵯峨院,領家と西園寺家,預所を親家とする皇室領として立荘されたものと考えられる(雨森善四郎氏旧蔵文書/広島県史古代中世資料編5)。同処分状によれば,後嵯峨院崩御後,花山院通雅が後院別当として当荘に御八講の布施料を課し,また当荘の毎年の年貢は官米600果であると記されている(同前)。同4年2月13日の沙弥道覚(師時)所領等処分状案の「嫡子木工助貞鑑分」の中に「土佐国田村郷内筑紫分」と郷名で見え,嫡子助貞に譲られ(中村光穂氏所蔵文書/九州荘園史料叢書筑後国三池荘史料),また建武3年3月25日の三池道寄(貞鑑)譲状写によれば,「土佐国三池郷」の地頭職などが嫡子助太郎貞元に譲られている(新編会津風土記七所収国分文書/南北朝遺513)。この三池氏は中原氏の流れをくみ,評定衆摂津守中原師員の孫貞房が筑後国三池荘の地頭となり,その子師時から三池氏を称するようになったと伝える。暦応4年8月7日の摂津親秀譲状の「一,惣領能直分」の中に「土佐国田村庄」が見え,同じ中原氏の一族である摂津親秀から惣領の能直に譲られている(三吉文書/神奈川県史古代中世資料編3上)。観応元年8月19日の佐兵衛権少尉盛氏寄進状によれば,故右馬助家員の菩提のため正善庵料物として「田村庄之内種子名年貢毎年五石」が寄進された(地蔵院文書)。下って「編年紀事略」巻3によれば「頃年(天授四年・永和四年)細川遠江守頼益土佐ノ守護トナリ香美郡田村ノ城ニ居ル,頼益ハ三河守頼元入道頼円ノ一子也」とあり,その依拠史料として細川角田系図(南国市細勝寺蔵)に「細川遠江守頼益公康暦頃当国守護職に下向,給香我美郡田村仁御在城」とあるのをあげているが,頼益は土佐国守護代であり,当荘入部の時期は土佐国守護である細川頼之が康暦元年京都で斯波・一色・赤松らの諸将と衝突して管領を辞し讃岐に下ったいわゆる康暦の政変の翌年頃と伝えられており,頼之は讃岐に落ち着くと一族の頼益を守護代として土佐に派遣したものと考えられる。前記の正善(禅)庵はその後細川頼之が応安元年に建立した地蔵院(現京都市西京区山田北ノ町)の末寺となっている。至徳2年2月24日掃部頭藤原某(摂津道賛か)寄進状によれば「寄進 西山地蔵院 土佐国田村庄事」とあり,毎日法華経転読料所として地蔵院に寄進された(地蔵院文書/県史古代中世)。しかしこの時は当荘半分の寄進であったようで,応永9年7月25日の藤原幸夜叉丸(摂津満親)寄進状に「寄進 西山地蔵院 土佐国田村庄事,右彼庄者,為毎日法花読誦,祖父道賛寄附当院畢,随而相残半分下地為亡父行済追善,一円所奉寄附也」とあり,この時残りの半分が地蔵院に寄進されている(同前)。一方,これより先の観応元年10月日の源阿寄進状には「寄進 土左国田村上庄正善庵神田入道名玖段事」とあり,当荘が上・下に分かれていたこと,前記の正善(禅)庵が田村上荘にあったことが知られる(地蔵院文書)。その後正禅庵には貞治5年2月7日の参川守泰綱寄進状では当荘内の「種子名内一町」が(同前/大日料6-27),応安2年11月日の沙弥某寄進状では「種子名」の年貢のうち毎年5石が寄進されている(同前/大日料6-31)。そして,明徳3年4月21日の沙弥道久寄進状案には「奉寄進 正禅庵 土佐国上田村庄内種子名之事」とあり,上田村荘内の種子名が一円に,西山地蔵院末寺正禅庵に細川永泰院(頼之)の菩提のため寄進されており(同前/県史古代中世),前記の至徳2年の当荘半分の寄進が上田村荘であったと考えられる。細川頼益が守護代として土佐に下ったあとにあたる至徳3年5月24日の浄恵寄進状には「奉寄進 洛陽西山地蔵院末寺土州田村上庄正禅庵并寺領等事」とあり,この浄恵は在地領主入交氏の一族と考えられ,先祖相伝の私領を手継証文を相副えて正禅庵に寄進している(同前)。浄恵は明徳3年5月24日の同寄進状では下人2人を正禅庵に寄進しており(同前),入交氏は細川氏の被官として頼益を介して正禅庵および寺領を細川頼之の建立した地蔵院に寄進したものと考えられる。そして明徳5年4月9日の藤原信数寄進状で「種子名新田二反」(在所河原崎)が「本名ニ帰加物也」として正禅庵に寄進されている(同前)。また年月日未詳の某下文には「下 土左国田村庄 補任種子名々主職事 源能所」とあり,この源能も入交氏と推定される(同前)。種子名については応永5年5月日の田村上荘種子名坪付が残っており,面積は8町5反20代,「西条六里」「同七里」「井門条六里」「同七里」「同八里」という条里制の残る穀倉地帯であった(同前)。西北には土佐国府の地を控え,当荘には守護代細川氏代々の居館が設けられ,頼益のあと満益―持益―勝益と4代の間,当荘を拠点として土佐国を支配した。一方,応永9年に地蔵院に寄進されたと考えられる下田村荘の初見は応永3年2月9日の田村下荘々官紛失状で「土左国田村下庄内正興寺院主職并供田事□」と見え,3か所,2町3反の供田が記されている(拾遺)。下って同33年9月29日の横越右京亮宛元資奉書には「地蔵院領土佐国下田村庄」とあり,伊勢の内宮役夫工米は京済とするので国の催促を止めるよう命じている(地蔵院文書)。また文安2年7月28日の斎藤上野介宛津某書状(同前),同年8月3日の守護代宛室町幕府奉行人連署奉書(同前),同年8月9日の麻殖参河入道宛飯尾備前常進奉書(同前)などでも「西山地蔵院領土佐国下田村・徳善保等」の内宮役夫工米を京済とし,国の催促を止めるよう命じている。この下田村荘の在地領主は千屋氏で,細川氏の被官として,のちには長宗我部氏の家臣として活躍するが,宝徳3年6月24日の千屋弾正道西請文には「西山地蔵院領土州下田村庄内富重名之名主職并案主職之事 合七町八反之内〈神田・給分在之〉」とあり,千屋氏が富重名主・案主として地蔵院への年貢公事を負担していたことがわかる(同前/県史古代中世)。年未詳6月8日の地蔵院侍者中宛宗用書状によれば「当御寺領土州下田村名田職事,依訴人出来候」とあり,下田村荘の名田職について相論があったことが知られ,守護代細川氏の命により「御被官人千屋三郎左衛門方へ可被返□之由」が伝えられている(地蔵院文書)。天正16年の下田村荘地検帳に「田村」が見え,41筆が記されており,40筆は「弘岡分」,1筆が「上村分」である。ホノギには四月田橋ノ爪・フシヤテン・中ス・東ツゝミタ・ヒノクチ・西ツゝミタ・下大ハラタ・ナカレタなどがある。また名編成されている部分もあり,井上名・五良大夫名・左近衛門名・福富名・九良衛門名・留重名・勘解由名各1筆,カツラキ名2筆がある。天正18年正月28日の鍋島八郎大夫知行坪付には「一,田村 合四段卅壱代一分」とある(蠧簡集)。また文禄3年11月29日の森下左馬丞知行坪付にも当地のホノギ「山の禰」の1筆(福留源六郎上地),20代,上屋敷が記されており(古文叢),同4年7月2日の長宗我部盛親知行宛行状には吉村忠兵衛の給地として当地の3か所,5反余(弘瀬七郎兵へ分)が記される(蠧簡集)。慶長元年12月2日の森本与介知行坪付に当地のホノギ「タカシロ」の1筆(美濃菊衛門分),37代余が記されている(木屑)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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