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徳善保(中世)


 南北朝期~室町期に見える保名。香美郡のうち。現在の香我美町徳王子付近に比定される。暦応元年11月4日の八幡宮土佐国両得番保連署状に「八幡宮領土左国両得番保」と見え,この「得番保」は「得善保」の誤りと考えられる(金沢文庫文書7)。当保は石清水八幡宮領で,足利尊氏から3度安堵の御教書を給わり,また俗別当が当保の御封代米30貫文を沙汰していたことが知られる(同前)。応永16年3月18日の石清水俗別当兼能契約状に「契約申 土佐国両徳善保事」と見え,当保は石清水八幡宮の正月15日の料所であったが,応永9年土佐国内を鎮定するために京都から武将2人が派遣された時,兵粮米所として借召されたため神役が懈怠した。その後,国内が静謐し両将も上洛したので,守護細川氏とゆかりの深い京都西山地蔵院と契約し,当保を地蔵院領とし,石清水八幡宮は土貢の3分の1を京都で受け取ることを定めている(地蔵院文書/大日料7‐12)。なお「両徳善保」とある点については,同17年2月7日の館六郎左衛門宛沙弥某打渡状(地蔵院文書/大日料7‐13)に「東得善保事」,同年2月10日の六郎左衛門尉宛沙弥某奉書(同前)に「土佐国東徳善保之事」とあり,前年応永16年12月13日の奉書の旨に任せて地蔵院雑掌に沙汰付するように命じていることから,当保が東西に分かれていたことが知られる。同18年5月30日の某袖判書下によれば,「土佐国東得善保年貢之内五貫文」を逸侍者(中逸)に渡付し,毎年地蔵院院主から受け取るよう伝えている(同前)。この得分は中逸没後,嘉吉元年5月3日の俗別当兼永売寄進状で,直銭20貫文で地蔵院に売寄進された(地蔵院文書)。文安2年7月28日の斎藤上野介宛津某書状(同前),同年8月3日の守護代宛室町幕府奉行人連署奉書(同前),同年8月9日の麻殖参河入道宛飯尾備前頭常進奉書(同前)などによれば,「西山地蔵院領土佐国下田村・徳善保等」の内宮役夫工米を京済とし,国の催促を止めるよう命じている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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