韮生郷(近世)

江戸期の郷名。香美郡のうち。当郷は古来「韮生五十余村」といわれ,橋川野村・白川村以北久保村に至る広い地域にわたる。大庄屋は慶長6年山内一豊入国の年孫左衛門が初代大庄屋に任命されて以来朴の木村にあって郷内を治め,「太郎丸邑志」に「安政五戊午五月二十二日於赤岡役所而佐岡村ヱ御挿替大庄屋号除ク」とあるように(香北町史),安政5年柳瀬楠太郎が大庄屋号を除かれるまで13代続いた。惣老は「天保六未ノ年二月」の韮生郷梅久保名本儀之助の惣老北村氏年譜に「一,初代韮生郷惣老五百蔵村名本兼勤 北村七右衛門」とあり,以後代々これを勤めた。当郷の村は,寛文7年の郷村石付では,橋川野・借家加野・萩野・白川・太郎丸・五百蔵・下野尻・上野尻・西又・荒川・古井・西峯・荒瀬・韮生野・日野御子・横谷・中谷・谷相・朴木・小川・吉野・根須・下タ田・白石・原比野・長野・中内・大井平・日浦古味・長瀬・清詰・伊野々・日比原・柚ノ木・柳イ瀬・梶佐古・安丸・下池・上池・神通寺・黒代・五王堂・南池・篠村・大西の45か村の村名が見え,「南路志」では原比野村が見えず,岩貝・中上・久保の3か村が含まれている。文政2年の太守豊公御巡覧之節差出之扣写では,家数1,960うち大庄屋・惣老・番人・名本55,他支配之者34・地下浪人13・地下医師6・百姓1,334・間人389,神主・社人・神子・陰陽師など89,商人21・諸職人91,人数1万1,378うち地下支配1万1,103,男5,194(うち15歳以上4,348)・女5,112(うち15歳以上3,500),他支配者272うち男205(うち15歳以上111)・女67(15歳以上40),宮120・堂58,御留山37・所林38,高山1,馬87・牛992,鉄砲532,御普請所323,大川1,渡場3,一本橋4,関所1,降鐘2,大般若経9(大川上3・柳瀬3・神通寺3),刀1(小川村百姓喜代平所持)・鎧1(永野村百姓喜八所持)・弓法書1(猪野々村百姓左衛門所持),地高1万441石余うち本田2,233石余(御蔵入1,920石余・知行399石余・大川上社領3石・給田24石)・新田4,450石余など(香北町史)。弘化4年の巡覧ニ付万指出写では,家数2,386うち庄屋1・惣老2・番人1・名本44・老3・地下浪人19・地下医師9・送番頭2・五人組頭456・組頭7・百姓1,194・間人362,神主・社人・神子・陰陽師・博士など15,商人87・博労15・諸職人106・山伏妻子6・他支配57,人数1万2,093うち地下42,地下牒入1万1,634うち男6,406・女5,228,僧7・他支配410(男215・女195),地高1万3,038石余うち本田2,340石余(御蔵入1,934石余・知行380石余・社領3石・小給23石),新田6,563石余(御蔵入5,271石余・知行262石余・役知583石余・地面278石余・小給2石余・御貸地166石余),領知2,261石余,小給切畑55石余,切畑1,816石余,宮120・堂58,御留山36・所林18,高山1,鉄砲542(うち作間猟師筒249・平筒283など),御普請所168,大川1,渡場3,一本橋4,関所1,降鐘2,大般若経9,鎧1(永野村喜八所持)・弓法書(猪野々村長右衛門所持),本田新御貢物米2,680石余・切畑米61石余の計2,741石余うち吉2,422石余・太319石余とある(柳瀬家文書/香北町史)。慶長7年2月山内一豊は韮生・大忍ほか5か村の庄屋・百姓に茶を摘みとるように指示しているが,野中兼山が執政となり,茶の栽培を進め,製品を藩の専売とし,歴代藩主も池川・名野川・韮生で生産される茶を御膳茶として愛用した(香北町史)。海防のための弘化5年2月の弘化駈付郷士地下浪人配賦には1,264人の郷士・地下浪人の名があげられ,それぞれの配置場所が決められている。当郷関係は,津呂から加嶺郷まで地下浪人の笹清八・篠三九郎,手結【てい】浦から種崎まで欠着郷士の柳瀬五市郎・谷内古左衛門・北村八十八・成矢助四郎・笹岡広右衛門・五百蔵新七・野島俊蔵・竹村亀之進・松村長左衛門・笹岡寿之助・小松左五郎・小松欽吾・谷内源之進などの名が見える(同前)。明治3年の郷村帳では韮生郷総分1万1,229石余うち本田2,340石余・新田8,889石余とある。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7436868 |