森山村(近世)

江戸期~明治22年の村名。吾川郡のうち。土佐藩領。村方と浦方からなる。村高は,寛永地検帳1,022石余(南路志),寛文7年の郷村石付でも同高,寛保3年の郷村帳1,018石余,「天保郷帳」1,120石余,明治3年の郷村帳1,334石余(本田1,018石余・新田316石余)。元禄地払帳によれば,本田1,018石余で御蔵知215石余・井損田18石余のほかは朝比奈玄右衛門など17名の知行,新田143石余うち御貢物地131石余・伊藤勘平領知11石余。承応元年,野中兼山による仁淀川から長浜村への水路が完成し,この水路における運漕に従事する者を仁淀川対岸の新居村から移住させて在郷町の新川が当村に設定された(商業経済史)。「土佐州郡志」では,村の規模は東西38町・南北10町余,「其土多砂」と記され,当村の新川は村の西北で人家60余,同地の規模は東西3町余,「有船運漕」とあり,土産は織粗蓆。寛保3年の郷村帳によると,戸数285・人数1,312(男700・女612),牛8・馬133。享和元年の「西郷浦山分廻見日記」によれば,家数350・人数1,550,馬198,新川改所役人がいる。八田堰から導かれた弘岡井筋は,比較的高い所を通ったため,新川の入口で川流の高低差が約3m生じた。この高低差を調節するため構築されたのが新川の落としである。このため仁淀川上流から高知城下に運ばれる物資や筏,逆に城下から仁淀川上流に運ばれる物資は一旦ここで降ろされ,それぞれ舟方衆によって運ばれた。このため新川町は物資集散の中継地として,作業に従事する運漕業者や商人の町として栄えた。この新川から長浜村への内陸水路の完成は仁淀川上流と城下町を結ぶこととなり,従来仁淀川河口から土佐湾へ出て,そこから浦戸湾を経て城下町へ至るルートにとって代わることとなった。このためそれまで分一役所のあった新居村甫淵はその役を果たさなくなり,そこに住む人々の多くは新川へ移住した。もともと新川には屋敷も畑地もなく,藩は移住する人々のために井戸を掘って与えた。当初3か所掘られたが,現存するものには新川の古井戸がある。各地から移住した人々の多いことは,天野屋・西畑屋・用石屋・小川屋・宇佐屋・伊与川屋などの屋号からも知られる。藩は積極的に新川町を取り立てて繁栄を企て,艜船93艘の特権や,ブッチョウ建築の承認など商業の特権も与えられ,森山庄屋の配下であったが,別に新川町老の支配を受けた。新川には,宝暦3年産物改所が置かれたが(文政4年廃止),一部は新川商人による売買が認められた。弘化年間その商業活動に対して藩によって規制を受けたが,万延元年5月の記録では新川町の戸数164で,大部分が木材の売買やその運漕に従事しており,依然として繁栄していたと思われる(商業経済史)。なお,天保6年からは新川で藩営の石灰焼が行われ,荒倉山からの石灰石を焼き,製品は周辺農家に肥料として売却されている。「南路志」では中村郷のうちと見え,神社に八幡宮2・妙見宮・伊勢宮,寺院に真言宗南林山不動院妙見寺があり,ほかに長徳寺跡・恩徳寺跡が記される。明治4年高知県に所属。同9年には,戸数380うち社16,人口1,667(男877・女790),牛2・馬90,荷船52,漁船10など,刈谷口・鍛冶屋敷・長徳寺・西角・三橋・新川・川久保の前・松木・高畠・木ノ瀬・土居・掲土・新在家・新高畠・蓮花寺などの字地があり,明治8年には黒法師の地に民家を改修して小学校を設立,男生徒66人・女生徒21人に教師1名がついて教育にあたっている。松木には村役場が設置された。産物は米・麦のほかサツマイモ・芋魁・大豆などで,特産物はなく,同12年の職業別戸数は農業戸数180・左官6・桶匠3・鍛冶3・大工8・商業143・雑業39となっている(森山村誌)。同22年市制町村制施行による森山村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7437576 |