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怡土郡


天正15年の豊臣秀吉の九州仕置によって当郡は統一政権下に組み入れられ,秀吉は筑前一国と筑後2郡(竹野・生葉),肥前2郡(基肄【きい】・養父【やぶ】)を小早川隆景に与え,当郡もその支配下に置かれた。しかし,同16年頃(文禄初年から慶長2年の間とする説もある)に公領であった博多と当郡半分が交換され,当郡半分は豊臣蔵入地となった。これにより東部は小早川氏領,西部(36か村とも39か村ともいう)は豊臣蔵入地(約2万石)となったものと考えられている。小早川氏の検地に際して作成された天正年間の「指出前之帳」によれば,当郡内の小早川氏領の14か村の地積・分米は,田689町余・8,136石余,畠152町余・684石余,合計841町余・8,821石余。慶長4年肥前国唐津藩主寺沢志摩守広高は願い出て薩摩国出水・肥後水保地域約2万4,000石の飛地を当郡内2万石と交換し,当郡の一部が寺沢氏領となる。同5年関ケ原の戦により小早川隆景の子秀秋は岡山へ加増・転封となり,代わって豊前6郡を領して中津城にいた黒田長政が筑前一国52万石を与えられて名島城に入部し,当郡の一部も領有することとなり,当郡は福岡藩領と唐津藩領となる。「慶長国絵図」によると,当郡内の福岡藩領は23村・1万6,105石余(田1万4,227石余・畠1,878石余,物成5,909石余)で,残りは唐津藩領とある。なお,元和2年の検地による当郡内の唐津藩領の実高は,2万8,360石余となったといい(唐津市史),また正保3年時には表高1万9,987石余であったという。寺沢氏は同4年改易となり,一時期幕府領となるが,慶安2年唐津に大久保氏が入封し再び唐津藩領になる。「寛文朱印留」によれば,福岡藩領は井原・瑞梅寺・西堂・千里・高祖【たかす】・三雲・大門・井田・王丸・高来寺・宇田川原・三坂・雷山・多久・飯場・末永・山北・高上・飯氏・篠原・周船寺【すせんじ】・上原・徳永の23か村,高1万6,105石余,唐津藩領は鹿家・吉井・福井・真名子・堀・佐波・大入・深江・一貴山・淀川・河原・片峰・松末【ますえ】・片山・浜窪・田中・加布里【かふり】・岩本・神在・本・東・松国・武・瀬戸・波呂・石崎・長石・満吉・唐原・小蔵・長野・飯原・蔵持・八島・香力・有田・平原・鴟の38か村,高2万96石余。延宝6年唐津藩主は大久保氏から松平乗久に代わるが,その際当郡のうち1万石が上知されて幕府領となり,また松平乗久は次男好乗に当郡内3,000石を分知するなどして,当郡の唐津藩領は3,000石余となった。この結果,当郡は幕府領・福岡藩領・唐津藩領・旗本松平氏知行地に分割されることとなった。旗本松平氏知行地3,000石は,好乗の孫影乗の代に無嗣断絶となり享保8年幕府領となった。元禄4年松平氏に代わって入部した土井氏の時代にも当郡内の唐津藩領は引き継がれた。「元禄郷帳」によると,福岡藩領は井原・瑞梅寺・井原山・西堂・川原・千里・高祖・三雲・大門・井田・王丸・高来寺・宇田川原・三坂・雷山・多久・飯場・末永・山北・高上・飯氏・篠原・周船寺・上原・徳永の各村,幕府領は東・本・富・有田・平原・蔵持・八島・香力・飯原・長野・小蔵・瀬戸・松国・波呂・長石・満吉・唐原・片峰・石崎・武・神有・岩本・加布里・田仲・浜窪・松米・片山・深江・河原・淀川・一貴山・真名子・堀・佐波・大入の各村,幕府領と唐津藩領の相給は福井村,唐津藩領は鹿家・吉井の各村とある。享保2年小笠原氏に代わって豊前国中津に入部した奥平氏が当郡内にも所領を宛行われて当郡内に中津藩領が成立した。宝暦12年唐津藩は土井氏に代わって水野氏が入封するが,これに際して当郡内の唐津藩領3村(福井村・吉井村・鹿家村)3,000石が上知されて幕府領となり,これにより当郡内の唐津藩領はなくなった。文政元年,対馬藩は文化8年の朝鮮通信使応接の功績により2万石を加増され,肥前国松浦郡内と当郡内に与えられた。この対馬藩飛地領は松浦郡浜崎村に役所が置かれたため対馬藩浜崎領と通称される。この結果,当郡は福岡藩領・中津藩領・対馬藩領に3分割されることとなった。「旧高旧領」によれば,藩領別村名は,福岡藩領が井原・末永・王丸・川原・西堂・瑞梅寺・山北・高上・雷山・三坂・高祖・飯場・大門・上原・徳永・周船寺・飯氏・千里・宇田川原・高来寺・井田・三雲・篠原・多久の各村,中津藩領が深江町と深江・淀川・松末・石崎・波呂・長石・満吉・唐原・片峰・河原・新片峰・一貴山・佐波・堀・真名子・分郷福井・大入・長野・飯原・蔵持・八島・有田・平原・富・分郷岩本・神在・武・松国・瀬戸・川付・小蔵の各村,厳原【いずはら】藩(対馬藩)領が福井・岩本・香力・浜窪・千早新田・加布里・東・本・分郷本・片山・田中・鹿家・吉井・吉井福井浦の各村と記されている。村数と石高は,「正保郷帳」46村・3万6,202石余(うち唐津藩領23村2万96石余),「元禄国絵図」87村・4万3,674石余,「元禄郷帳」63村・4万3,674石余,「天保郷帳」63村・4万7,309石余,「旧高旧領」70村・4万7,681石余。福岡藩では各郡内の村々をいくつかの触に分けて大庄屋に管轄させたが,当郡内は文化9年には徳永触・井原触に分かれていた。明治4年各藩領は福岡県・中津県・厳原県となり,同年11月福岡県に所属することになる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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