黒木(中世)

鎌倉期から見える地名。筑後国上妻郡のうち。文保元年9月10日鎮西探題北条随時御教書(五条文書/纂集)に「筑後国黒木内菖蒲田以下事」とある。建武3年3月7日,足利尊氏の将上野頼兼は新田義貞与党菊池武敏らの拠る黒木城を攻め17日落城させた。同年3月8日から4月5日にかけての軍忠状によれば,頼兼の下で城攻めに参加した武士には筑後国の荒木家有・肥前国竜造寺実善・同義智・同大江通信・同藤原数門らがいた(近藤文書・竜造寺文書・来島文書・武雄社文書/大友史料5)。応安7年11月九州探題今川了俊は菊池賀々丸(武朝)討伐のため肥後に赴く途中黒木城を攻め落城させた。了俊の下で黒木陣に参陣した武士には応安8年正月日から永和3年3月日にかけての軍忠状によると,安芸の長井貞広・毛利元春・備後の山内通忠ら中国勢のほか豊後の田原氏能,肥前の深堀時広・安富直安らがいた(福原対馬所蔵文書/今川了俊関係編年史料上,毛利文書・山内首藤家文書・入江家蔵田原文書/大友史料8,深堀文書・深江文書/佐賀県史料集成4)。黒木城衆を降参させた後,上妻郡谷川で越年した了俊は,翌応安8年3月25日の島津伊久にあてた書状(島津文書/今川了俊関係編年史料上)で「黒木辺物物共ハ,皆々めしくし」て27日出立すると告げている。7月肥後菊池郡水島に進出した了俊は8月九州三人衆の1人少弐冬資を水島陣で誘殺,その結果孤立し南朝方の蜂起を招く事になった。永和4年10月了俊の弟仲秋および子の貞臣は黒木に陣を設け耳能【みのう】山城を攻めたが,永和4年11月日の軍忠状によると,従軍した武士に肥前松浦党の大島実・同堅・同政・同勝・橘公有らがいる(来島文書・小鹿島文書/大友史料8)。弘和3年4月14日,後征西将軍良成親王は征西将軍懐良親王の死をいたみ,「黒木ニ打寄」せた凶徒を五条氏が撃退したことを賞した(五条文書/纂集)。元中8年10月,筑後守護大友親世親類大友親氏と守護代如法寺氏信らは矢部山中に拠る五条頼治を攻めたが,頼治輩下および黒木四郎らの奮戦により黒木城近所まで大友軍は引き退いた。このことを記した五条頼治申状案(同前)に黒木城は「敵城」とある。享徳3年11月3日肥後の菊池為邦は五条頼経に「黒木山内寄之村」を安堵した(同前)。寛正6年大友親繁は黒木・三池氏ら反乱の報により筑後に出陣したが,同年10月17日の光憧書状に黒木合戦とあるのはこの時のものであろう(立花家蔵大友文書/大友史料11)。永禄7年,毛利元就に通じて反した筑後国内の武士を討つため豊後の大友宗麟は筑後に出兵,黒木家永(実久)の猫尾城(黒木城)を攻め黒木氏を降伏させた(大友家文書録/同前21)。天正6年3月書写の筑後国領主付に「黒木兵庫頭宗実居猫尾城」とあり646町7反を有すとみえる(大友史料24)。同12年7月28日の大友家奉行人連署書状によると,同年7月20日大友義統の兵は五条氏らとともに肥前の竜造寺政家の属将黒木家永を猫尾城に攻めその里城を落とし猫尾城の水の便を断った(五条文書/纂集)。しかし家永は守備を固くして猫尾城は落城しなかったので,8月19日義統の将筑前立花城主戸次道雪・同宝満城主高橋紹運らは猫尾攻囲軍に参加,9月1日落城し家永は降伏した(五条文書など/大日料11-8・11-9)。「黒木氏木屋氏系図」では,家永は9月5日に自決している。10月13日当時肥後の高瀬にいた薩摩の島津忠平の下に黒木家永の使者が援を求めて到ったが時既に遅かった(上井覚兼日記/古記録)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7439961 |