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下名島町(近世~近代)


江戸期~昭和39年の町名江戸期は福岡城下六町筋の1町那珂川河口左岸,福岡城の東に位置する東は橋口町,西は上名島町に続く町名は,城下町建設の際,小早川氏の城下であった名島の町人が当地に移され成立したことに由来する(続風土記)はじめ名島中町,または東名島町といったが,のち中名島町,俗には中の番とも称し(続風土記拾遺),さらには西の上名島町に対して下名島町と呼ばれるようになった元禄3年の家数69(続風土記),文化3年の家数55・人数356,間数238間余(文化9年福岡・博多地図)播磨国出身の日高氏や御用仏師・畳職が住んでいた(続風土記拾遺)元文5年より10~3月に野菜市が立った(博多津要録)18世紀末,米屋の醤油は美味で知られた隣国の使者などを接待する会所があったが(続風土記付録),寛文8年と文政2年に火災で焼失町の北側の横丁を油屋町といい材木町と入り交じる町の長さは東西2町21間余,幅南北46間,道幅は2間3尺余明治11年福岡区に所属同12年の戸数89・人口405(男198・女207),民業は工17戸・商56戸・雑業11戸,物産は靴・酒(福岡区地誌)明治10年弘聞社が「筑紫新聞」を,同11年頃成美社が「福岡新聞」を発刊なお,弘聞社は同13年橋口町に移転同22年福岡市の町名となる昭和20年戦災に遭い,戦後戦災復興土地区画整理事業によって,同26年昭和通りが完成した同35年の世帯数50・人口233同39年天神1~5丁目となる




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7440704