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下稗田村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。豊前国京都【みやこ】郡のうち。小倉藩領。久保手永に属す。村高は,「正保国絵図」941石余,「元禄国絵図」878石余,「天保郷帳」994石余,「旧高旧領」871石余。元和8年の家数62・人数128(男70・女58),牛15・馬4,神主・鍛冶・大工がいた(人畜改帳)。元和~正保年間に前田村を分村したという(京都郡誌)。享保飢饉の餓死者は76人(開善寺過去帳)。鎮守は字サヤの大分八幡社で,社伝によると,はじめ日吉神社と称したが,のち馬岳城主新田義氏が筑前大分八幡を合祀し,大分八幡宮が本殿,日吉神社は摂社となった。往昔は豊前国京都郡長峡県吉田荘の産土神という。寛永5年上田村へ,寛永6年には上稗田村にそれぞれ分社。同社では雨止め・雨乞の祈祷,稗田神楽がたびたび催された(中村平左衛門日記・仏山堂日記)。寺院は,字森の真言宗大吉寺。寺伝によると天平9年創立,寛文元年再建。同寺は漢詩人村上仏山とは因縁が深く,仏山の詩・日記の中にも見える。仏山と親交のあった長府の漢詩人藤井秋皐の招魂碑を建立(仏山堂日記)。当村は土地が低く,大雨で水害を受けることが多く,また,旱魃・蝗害などで農産物の被害も大きかった(同前)。明治3年の戸数38・人口189(男87・女102)。小学校は,明治5年寺院を借用して稗田小学校を開設,教員1・生徒数54(男50・女4),同19年西谷村に分校を設立(県教育百年史)。同22年稗田村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7440722