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底井野郷(中世)


 南北朝期~戦国期に見える郷名。筑前国御牧【みまき】郡(遠賀郡)のうち。貞和元年12月,足利直義は開田佐渡次郎遠員に対し,所領を安堵したが,その内に筑前国底井野郷地頭職が含まれていた。去る建武5年に凶徒のため証文を紛失し,そのため武藤資経・大友宗匡らによる実否を検せられてのことであった(蜷川家文書1/大日古)。開田氏は鞍手郡粥田荘の開発領主の系譜につながる在地領主であったとみられるが,文和4年10月の足利尊氏の袖判宛行状によれば,筑前国「賀伊田次郎五郎跡田地参拾町地頭職」が勲功の賞として麻生宗光に宛行われている(麻生文書/九州史料叢書39)。この人物が先の開田遠員と同一人とすれば,ここに地頭職とあるのは底井野郷のそれである可能性もある。室町期にはいると,応永32年7月御牧郡(遠賀郡)内の頓野・広渡・底井野・香月・上津役等跡が,足利道詮(義持)の御判御教書をもって渋川満頼に宛行われたが,同34年12月満頼は底井野(開田)治部少輔に対し,「筑前国本領之地事,幸当方拝領之事候之上者,□(如カ)元返渡候」として返付している。宝徳2年8月,管領畠山持国は開田備中入道に対し,底井野郷地頭職を安堵し,翌年3月には筑前守護大内教弘の遵行状が下された(以上,蜷川家文書1/大日古)。このように少なくともこの頃までは底井野郷の地頭職は開田氏が有し,支配しており,その地名を氏とするようになった。戦国期に入ると当地も麻生・宗像・大友らの勢力が錯綜するが,「麻生隆守記」によれば天文16年の麻生隆実の諸臣恩賞において,家臣永富十郎に感田荘65町を与え底井野の猫城に置いたとあり,麻生氏の出城が置かれていた。のち天正6年には宗像大宮司氏貞の有するところとなった(以上,中間市史上)。永禄5年3月,麻生隆実は佐野宮菊丸に対し父のもっていた底井野郷大宮司職を安堵し,また天正15年,船津氏忠は鹿寿丸に対し,底井野郷宮内分一町の地を預け,大宮司職を相勤めるように伝えている(麻生文書/九州史料叢書39)。なお,天正年間の「指出前之帳」には「底井野村」と見え,枝村「上そこいの」「中村」「下村」を含み,田96町余・分米687石余,畠43町余・分大豆178石余であった。近世初期,上底井野・中底井野・下底井野に分かれたものかと思われる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7441089