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筑前国


筑前国の初見は「続日本紀」文武天皇2年3月の条であるから,筑前・筑後に分かれたのは7世紀最末期であろう。大宝4年2月11日の大宰府移には「竹志前国」とみえる。筑前国は大宰府の兼帯で国司は別置されていなかったが,神亀年間から天平年間には別置がみられ,その後廃置を繰り返し,大宰府府官の国務兼帯がみられる。大同3年府官と筑前国司の二本立となり,以後国司は廃止されなかったようである。国の等級は上国。筑前国府は「和名抄」に記しているように,大宰府とともに御笠郡に在ったが,具体的には,遠賀軍団の団印が出土した太宰府市水城小学校あたりとする説と同市通古賀【とおのこが】にあてる説とがある。国分寺は太宰府市国分にあり,直接史料は延暦20年1月から残っており,調査も行われている。平安末期にはその役割を終えている。国分尼寺跡も僧寺の近くにあり,近世初期までは礎石が残っていた。筑前国所管の郡は怡土【いと】・志麻・早良【さわら】・那珂・席田【むしろだ】・糟屋・宗像・遠賀・鞍手・嘉麻・穂波・夜須・下座・上座・御笠の15郡である。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条は,駅馬として独見・夜久各15疋,島門23疋,津日22疋,席打・夷守・美野各15疋,久爾10疋,佐尉・深江・比菩・額田・石瀬・長丘・把伎・広瀬・隈埼・伏見・綱別各5疋とし,伝馬として御笠郡15疋とする。御笠郡に置かれた大宰府は九州の内政を管掌し対外交渉に当たった。古代筑前国の最も大きな特色である。内政関係で重要な事例を2つあげれば,天平12年8月,大宰少弐藤原広嗣は上表して時政の得失,天地の災異を述べ,橘諸兄のもとで時めいている僧正玄昉と吉備真備を除かんことを説き,翌月府に拠って乱をおこした。動員はほぼ九州全域に及んでいる。広嗣は敗れて肥前松浦郡で斬られた。天平17年玄昉は観世音寺造営を名として大宰府に移され,翌年死亡。次に,律令体制の矛盾の進行に対処して,財政危機を克服して歳入を確保するため,弘仁14年に案出実施された公営田の制度があげられる。具体的には,大宰府管内における連年の不作と疫病の流行による人民の疲弊を救い歳入を確保しようというものである。大宰府管内の口分田と乗田(口分田に配給した余りの田)7万6,587町から1万2,095町を割き取り,初期荘園の経営法を取り入れたもので,肥後・筑前などで実施しており,平安期の国政改革の先駆的・実験的な試みであった。だが,9世紀末にその使命を終え荘園などに代わられる。大宰府の対外交渉の実際は博多の鴻臚館で取り行われた,唐・新羅からの使節の接待,遣唐使の送迎などを行い,のちには唐物貿易の場となった。11世紀末には名称だけで実体はなくなり,日宋貿易は九州沿岸の荘園の港で行われるようになった。博多湾沿岸では11世紀筥崎【はこざき】・博多に宋人の集住地域が形成されており,12世紀後半には今津でも同様であったとみられる。これら宋人貿易業者(綱首)は宗像社・筥崎宮などと帰属関係を結んで,博多付近などに所領をもち日宋貿易に従っていた。11世紀初頭寛仁3年の刀伊の入寇は対馬・壱岐【いき】・筑前海岸部に被害を与えたが,その防戦は武士化していた大宰府府官や在地土豪が担っている。12世紀初頭から九州に根を張っていた平氏は清盛の段階になって大宰府の支配につとめ,さらに豊前国衙,安楽寺・筥崎宮・宇佐宮など九州の代表的寺社を掌握し,積極的な対外関係を展開した。大宰府府官原田種直や遠賀川流域の豪族山鹿秀遠などは,平氏家人化の典型例である。しかし,源平合戦の結果は周知のところである。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7441504