長延村(近世)

江戸期~明治22年の村名。筑後国上妻郡のうち。はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領。川瀬組に属す。天正17年の検地では田畑15町(家勤記得集)。文禄2年3月18日の高良山知行所指出(稲員文書/水田荘広川荘史料)に「拾五町 座主領 長延」と見え,高良山座主領があったことがわかる。村高は,「元禄国絵図」283石,「在方諸覚書」の古高470石,「天保郷帳」302石余,「旧高旧領」1,036石余。文化4年の本田27町7反余・開田3反余・畑田1反余・畑37町3反余・居屋敷9反余,春免高787石(農政農民史料集)。字東福寺には古寺跡があり,堂宇に十一面観世音菩薩を祀り,文化6年萩尾基寿再建の棟札がある。日吉神社は大山咋命を祀り,社殿は万治3年に再興,境内に4社がある。字寺山には天満宮がある。元和~元禄年間に灌漑用水を確保するために,藩と古賀組大庄屋の指導で村内各所に新塘が築かれた。元和9年字井ノ口に,貞享元年低井谷と字白石に新塘を築き,同年11月に新塘を築き新溝80間を掘る。また同年萩尾谷流末に新溝120間を掘った。元禄15年には菅牟田に新塘を掘り,同年3月には井ノ口塘を築き直した(家勤記得集)。宝暦2年庄屋萩尾八之丞は稲員氏の跡目を継いで上広川庄21か村の大庄屋職を勤めたが,同4年の宝暦一揆に際し打毀に遭い(久留米市史),同職は宝暦6年頃吉常村庄屋西村六郎兵衛が継いだ。明治10年には川上村の川上小学の学区に属す。同22年上広川村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7442091 |