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野介荘(中世)


 平安末期~戦国期に見える荘園名。筑前国早良郡のうち。野花荘とも見える。安元2年2月日の八条院領目録に「筑前国野介」と見え(山科古文書/平遺5060),当荘が,鳥羽天皇第3皇女暲子(八条院)の所領であったことがわかる。養和元年のものとされる11月23日の紀俊守申状によると,野介荘は所当米709石で,その3分の2は「他所他庄之住人」が入作しているという。また荘領に塩浜があり,所当米の一部は「廻船」で塩を売り弁済するのが「御庄之習」だと見える。同申状によると当荘には,国衙より350石の兵粮米が課せられ,さらに「追討使」下向の際,荘内住人に「公私夫伝馬」等を付せられたため,住人の多くが逃散したという(高山寺文書/平遺補405)。鎌倉期,嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録案に,観喜光院領として「筑前国野介庄〈大炊御門前中納言〉」と見える(竹内文平氏文書/日向国荘園史料)。昭慶門院は亀山天皇皇女憙子で,当荘が大覚寺統の荘園として伝領されたことがわかる。また鎌倉期には,筑前国における訴訟に関して,鎮西探題より使節に命じられた者に野介道蓮・野介章綱等が見えているが(大友文書/大友史料3・4),この野介氏は当地を苗字の地とする一族で,鎌倉幕府の御家人であったと考えられる。南北朝期,観応2年6月17日の足利直冬安堵状によると,直冬は「野介庄七隈郷内田地壱町陸十歩」の地頭職を武光三郎重兼に安堵しており(入来院文書/入来文書),当荘の一部は,隣接する七隈郷に属していたようである。また康安2年10月少弐冬資は,野介正智房跡の当荘内田地3町の地頭職を兵粮料所として少弐氏被官榊右衛門次郎に預けている(明法寺榊文書)。戦国期,文明10年11月大内政弘は,当荘10町地を飯田新蔵人重頼に宛行い,安楽平城在城を命じている(飯田文書並系図/大日料8-10)。文亀3年9月18日の杉武連遵行状によると,筑前国守護代杉武連は,「櫛田宮領野花庄三町四段大半済分壱町七段小」を石津弥五郎に打渡しており(九州大学付属中央図書館蔵福陵雑纂1),この時期当荘は櫛田宮領となっていた。また大永6年7月17日飯盛宮御神領坪付写には,宮領7反の作人として「野芥大聖寺〈源左衛門〉」と見え(牛尾文書/飯盛神社関係史料集),当地には大聖寺という寺があった。その後,天正8年3月1日の竜造寺隆信・同鎮賢連署坪付によると,竜造寺氏は家臣空閑三河守に早良郡内の土地215町を与えているが,その中に「一所野介村之内 四十町」と見える(多久文書/佐賀県史料集成10)。なお,天正年間の「指出前之帳」には「野介村」と見え,田73町余・分米787石余,畠32町余・分大豆177石余であった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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