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博多(近世)


 江戸期~明治11年の町名。那珂郡のうち。江戸期は福岡藩の町人町。福岡城下とは那珂川を隔て,その東に位置し,北は博多湾,西は御笠(石堂)川,南は房州堀・古屋堀の跡,東は那珂川支流博多川を境としていた。かつて博多の東から那珂川までの入海であった袖ノ湊は,江戸期は東西に通る溝として残り,大水道と称されていた。地内は,天正15年の豊臣秀吉の博多再興によって始った流【ながれ】という町組に分けられた。町組は,最初に縄張りされた一小路(市小路)を基準とし,その東にある町を東町,西にある町を西町として,順次流れが成立した。流れは,南北・東西に延びた通りの両側の町屋を単位に決められた。また,流は櫛田神社の祇園会や正月15日の松囃子の負担単位ともなっていた(博多津要録)。はじめ流は,東町流・呉服町流・西町流・土居流・須崎流・石堂流・奥流の7流であったというが(同前),元禄年間には9流となり,所属町数・総軒数は,東町流9か町(御供所町・聖福寺前町・金屋小路町・北船町・浜口町上・浜口町中・浜口町下・女家町東・鏡町東)・218,呉服町流11か町(小山町・小山町下・呉服町・呉服町下・一小路上・一小路中・一小路下・女家町西・鏡町西・奥小路東・茅堂町東)・228,西町流12か町(万行寺前町・竹券番・箔屋番・西町上・西町下・蔵本番・奈良屋番・金屋番・奥小路・茅堂町・古渓町・芥屋町)・375,土居町流13か町(櫛田社家町・大乗寺前町・土居町上・土居町中・土居町下・行町上・行町下・浜小路町・西方寺前町・西方寺前町下・片土居町・土居川口町・新川端町)・357,洲崎町流18か町(掛町・洲崎麹屋番・橋口町・川端上・新川端上・川端下・洲崎町上・洲崎町中・洲崎裏町・対馬小路上・対馬小路中・対馬小路町横町・対馬小路下・妙楽寺町・妙楽寺裏町・妙楽寺新町・古門戸町・古門戸横町)・435,石堂流12か町(蓮池町・立町上・立町中・立町下・金屋町上・金屋町中・金屋町横町・金屋町下・官内町・石堂町・中間町・綱場町)・358,魚町流12か町(西門町・中小路上・中小路下・魚町上ノ上・魚町上ノ下・魚町上ノ下・魚町中ノ上・魚町中ノ下・店屋町上・店屋町下・古小路町・中島町)・295,新町流12か町(辻堂作出町・辻堂町上・辻堂町中・辻堂町下・馬場新町・鷹師町上・鷹師町下・瓦町・立町浜・浜口浜・市小路浜・西町浜)・393,途子流11か町(奥堂町上・奥堂町中・奥堂町下・櫛田前町・今熊町・普賢堂町・普賢堂町下・桶屋町上・桶屋町下・赤間町上・赤間町下)・281で,総町数111・総軒数2,940(続風土記)。宝暦年間にもやはり9流であったが,所属町数・総軒数は,東町流9か町(御供所町・金屋小路町・北船町・東町上・東町下・浜口町上・浜口町中・浜口町下・鏡町)・286,呉服町流9か町(小山町上・小山町下・呉服町上・呉服町下・一小路町上・一小路町中・一小路町下・女家数・萱堂町)・278,西町流11か町(万行寺前町・竹券番・箔屋番・西町上・西町下・蔵本番・奈良屋番・釜屋番・奥小路町・古渓町・芥屋町)・414,土居町流11か町(櫛田社家町・大乗寺前町・土居町上・土居町中・土居町下・行町・浜小路町・西方寺前町・片土居町・川口町・新川端町上)・398,須崎流15か町(掛町・麹屋番・橋口町・新川端町下・川端町上・川端町中・須崎町上・須崎町中・鰯町上・鰯町下・対馬小路町上・対馬小路町中・対馬小路町下・妙楽寺前町・古門戸町)・502余,石堂流11か町(蓮池町・立町上・立町中・立町下・金屋町上・金屋町下・金屋町横町・官内町・中石堂町・中間町・綱場町)・363,魚町流9か町(西門町・中小路町・魚町上・魚町中・魚町下・店屋町上・店屋町下・古小路町・中島町)・293,新丁流10か村(辻堂町上・辻堂町下・馬場新町・祇園町上・祇園町下・瓦町・竪町浜・浜口町浜・一小路町浜・西町浜)・395,厨子流13か町(奥堂町上・奥堂町下・奥堂町中・櫛田前町・今熊町・普賢堂町・普賢堂町下・桶屋町上・桶屋町下・赤間町上・赤間町下・厨子町上・途子町下)・379で,若干所属の変更や町の統廃合,および町名の改称が見られ,総町数99・総軒数3,308余(石城志)。さらに幕末期には,新町流が岡新町流と浜流に分かれ,流れは東町流・呉服町流・西町流・土居流・洲崎流・魚町流・石堂流・厨子流・岡新町流・浜流の10流となった。なお,正月松囃子には各流ごとに仮装を仕立てたが,その仮装にちなんで魚町流は福神流,石堂流は恵比須流,須崎流は大黒流ともいった。また,流れに属さない町としては,遊女町の柳町,聖福寺内の寺中町(寺中),俳優が居住した仮屋町(仮屋)があった(博多津要録)。博多の人数は,元禄3年1万9,468(男1万1,138・女8,330),元文2年1万3,469(男7,617・女5,852)と記録される(続風土記・博多津要録)。町名の改称については不明な点が多いが,鷹匠町上・鷹匠町下は江戸中期ころまでに祇園町上・祇園町下と改称し,年行司借家は,太右衛門借家を経て享保2年川端町中と改称し,延享2年川端町上とともに川端町の一部となっている。ほかに,川端町下は,延享2年鰯町を経て,宝暦2年鰯町上と改称,洲崎裏町は宝暦2年鰯町下と改称したことなどが知られる(石城遺聞)。天下分け目の関ケ原の戦で勲功をたてた黒田如水・長政父子は,豊前中津藩から一挙に筑前福岡藩52万3,000石の大守へ加増移封となった。慶長12年6月,長政は掟(博多御制札)を博多土居町・掛町の辻に建てた。それによれば,まず喧嘩口論や押売押買を堅く禁じて取引きの円滑化をはかっている。また,幕府が定めた金銀の秤,判形の升の使用を命じて秤量の統制を実施した。一方走百姓の処置,人身売買の禁止,百姓や給人に不届きの行為がある際は郡奉行へ届出ること,奉公人召抱えの時はその村の給人・代官へ尋ねることとしている。総じていえば,掟は都市博多と博多町人経営の基本原則をうたったものといえよう。同13年7月には,福岡・博多の五人組について宮崎織部と徳永宗也両人に申渡しを行った。その内容は櫛田社祇園会等に関するものに重点が置かれ,かつて大友氏が博多支配に際して博多祇園会を用いたように,黒田氏にとっても,祇園会の管理は早急に着手すべき問題であったと思われる。慶長17年正月には,博多・福岡町人についての掟が出された。黒田氏の福岡入部以前より博多・福岡に家を持ち住みついているものは,よくよく分別の上出身地に返すべきこと,入国以後に博多・福岡に移住し家を持ち住みついており,町役なども勤めているものは出身地に返すべきこと,また入国以前に質物にはいっていたものを所定の年数以前に返す場合は,借りたものを早速整えて取戻すべきこととしている。福岡藩制確立の一環として福岡領内における人の出入りに一定の尺度を示し,博多・福岡への人の流入を防ぎ,あわせて両都町人の固定を試みたものであろう。黒田氏は博多町人の支配・掌握をめざして,元和7年博多年行司に関する規定を次のように定めた。まず,年行司12人を決定し,4人ずつ1年の輪番制を採用し,当番の者には那珂郡住吉村・春吉村のうち200石の知行を遣わすこと,交代に当たっては土地・百姓ともに間違いなく次番の者へ引渡すことを命じた。また,藩が博多津中から受取るものは歳暮と節句祝いとして年間銀8枚(年行司1人につき2枚ずつ)のみで,それ以外は一切徴収しないとしている。博多年行司の役号は古代にすでに見られるといわれるが,福岡藩政下の年行司には播磨や豊前中津から福岡へ移住してきた町人の主だったものが若干含まれていたと考えられる。「石城遺聞」によれば,福岡藩政下の年行司は町奉行が名望あるものを選び,家老の稟議を得て命じたといい,年行司数名の場合,別に年行司役場を設けたが,宝暦年間以降は隔年にその居所へ役場を設けたといわれる。1年間に銀高56貫500匁を博多津中で上・中・下の段を設けて銀高を割付け,1か月を限って年行司が徴収して町役所へ納め,藩主参勤上下水夫賃銀・出方菜銀・年行司紙墨代・年行司役場諸賃・書役小使給・人足支配・札馬支配・目明し給・町役所小使給等,および松囃子・山笠入目銀を賄い,残りは町役所へ溜めたという。このように博多町人の生活は,年行司を頂点として,自治の体制を維持しながら,藩政の重要な一環として,日常生活がくり返されていた。しかし,鎖国により海外貿易を断たれた博多町人は,伊藤小左衛門のような密貿易業者は出たが,一般に消極的で,古い伝統に安住し,「博多にわか」の即興に刹那の慰安を求める有様となった。「石城志」は博多の産物として,刀・芦屋糸釜・祇園山人形・綿打弓・秤・筆・博多織・練酒・そうめん・卵そうめん・蝋燭・薬種類をあげている。博多は筑前国第一の手工業都市でもあった。とりわけ藩制中期以降の手工業の中心は蝋の生産であった。明治7年福岡県の命令で,従来の町名のうち某町上と称していたものは上某町に,また某番は某町に,某小路町はたんに某小路と改めることとなった。また,同8年には竪丁浜は大浜町一丁目,浜口浜は大浜町二丁目,市小路浜は大浜町三丁目,西町浜は大浜町四丁目と改称。同5年博多に正式に編入された仮屋は,同11年小金町と改称(石城遺聞)。明治11年郡区町村編制法により福岡区の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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