曲村(中世)

鎌倉期~戦国期に見える村名。筑前国宗像【むなかた】郡のうち。寛喜3年3月,筑前国司庁宣で曲村40町が宗像社修理料に寄進されている(宗像神社文書/鎌遺4120)。すなわち,同年4月5日の官宣旨によれば,往昔以来,宗像社の修理料は遠賀郡の芦屋津から粕屋郡の新宮浜までの漂濤の寄物をもって沙汰したが,往阿弥陀仏が鐘崎に孤島を築いたため宗像神社の修理用途にしていた漂濤の寄物が少なくなり,その代わりとして曲村の田地40町が寄進された(同前/宗像郡誌中巻)。この後,社家と地頭の相論が続き貞永元年7月26日の関東下知状では「社領之分,宜為本所進止」とされている(同前)。なお,下知状には東郷之内曲村とあって,宗像東郷に含まれていたことがわかる。次に仁治6年6月3日の関東御教書では,「宗像社領曲村事,任先例可為地頭請所」となっている(松平定教氏旧蔵宗像神社文書/鎌遺5877)。延慶3年8月15日には,後伏見上皇が曲村を寛喜の宣旨に任せ宗像大宮司に返付けている(宗像神社文書/宗像郡誌中巻)。南北朝期に入って,建武元年3月20日の雑訴決断所牒は,宗像社の曲村当知行が去年9月17日の綸旨で認められたものの,悪人等の濫妨狼藉がやまず,再度停止しているが,ここでは宗像荘内曲村とある(松平定教氏旧蔵宗像神社文書/南北朝遺17)。観応2年11月5日には,一色範氏が曲村地頭職を宗像社に寄進しており(同前/同前3246),翌文和元年11月22日には,大高重成が曲村地頭職等を宗像神社に,先の寄進状に従って下地を付すようにと命じている(宗像大宮司文書/同前3491)。しかし,曲村が宗像社領として安定したわけではなく応安2年8月18日には千葉胤連が重代相伝の本領,「東郷内曲村地頭職並公文職」を舎弟宗果上座に譲渡しているように,なお変動があった(松平定教氏旧蔵宗像神社文書/宗像郡誌中巻)。その後,宗像氏俊が「宗像庄内曲村地頭職事」の押妨について訴えており,応安6年7月29日,九州探題今川了俊が少弐冬資に押妨停止を命じている(同前)。同年12月26日には,宗像権大宮司氏頼の訴えにより,再び了俊は「退押妨人等,沙汰付下地於氏頼」としている(宗像神社文書/宗像郡誌中巻)。ところで,明応9年4月5日の宗像社社領注文には「曲村七十一町一段六十斗」とある(余瀬文書/大分県史料25)。また,小早川隆景支配下の天正17年11月5日の宗像社領目録には,惣田数49町9反半30歩・現田45町7反90歩,分米356石9斗7升2合3勺,惣畠数14町1反小歩・現畠数12町4反小歩,分銭古11貫427文とある(宗像家文書/宗像郡誌中巻)。なお,同じ小早川氏の天正年間の「指出前之帳」によれば,宗像郡曲里村の地積・分米は,田54町余・870石余,畠22町余・118石余,合計76町余・988石余とあり,宗像社の検地の方が田畠数・分米が低い。文禄4年12月1日の筑前鞍手宗像御牧三郡内知行方目録帳では,鞍手郡「まがり村」として988石6斗1升とある(小早川家文書1/大日古)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7443235 |





