馬田郷(古代)

平安期に見える郷名。「和名抄」筑前国夜須郡六郷の1つ。のちには夜須東郷に属した。これに訓は付されていないが,同書には東隣の筑前国下座郡にも同字の郷名が見られ,伊勢本・東急本はそれに「无万多」という訓を施しているので,これも「ムマタ」と訓まれたのかもしれない。ところで,「古事記」には筑紫末多君【つくしのまたのきみ】の名が見え,「国造本紀」に見える竺志米多【つくしのめた】国造と同氏と考えられている。「古事記伝」は「末」を「米」の誤写と解し,米多国造すなわち米多君の本拠を「和名抄」に見える肥前国三根郡米多郷(佐賀県三養基郡上峰村)に擬定した。しかし同郡内には嶺県主の名も見え,狭い地域を二分するようにして国造と県主が併存したとは考えがたいのではないだろうか。「古事記伝」とは反対に,「米」が「末」の誤写とも考えられ,すでに「地名辞書」でも指摘されているように,末多君の本拠が当郷の前身であった可能性もある。他に徴すべき史料がないので,あくまでも1つの仮説にすぎないが,この点からすれば,現在と同じように,マダないしマタと呼ばれたのかもしれない。しかし,当郷に関する史料は他に見られず,具体的な状況についてはまったく明らかでない。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7443273 |