三潴荘(中世)

平安末期~戦国期に見える荘園名。三潴【みずま】郡のうち。平治元年閏5月日の宝荘厳院領荘園注文(東寺百合文書/平遺2986)に「筑後国三潴庄・隆季卿 米六百石 綿四百十一両」とある。同文書には宝荘厳院領として三潴荘など9荘,園・牧・保各1をあげているが,近江三村荘・備後津口荘が米300石とあり三潴荘の半分であり他はそれぞれ以下である。既に平安末期三潴荘が穀倉地帯であったことを示していると考えられる。なお綿を負担しているのは当荘だけである。宝荘厳院は鳥羽上皇御願寺として長承元年創建された寺であり,当荘は宝荘厳院を本所とし領家が隆季を祖とする四条家であった。四条家は四条流庖丁の家として知られる。文治5年3月13日源頼朝は「鎮西三潴庄地頭義盛を令停止候」と記している(吾妻鏡)。これ以前侍所別当和田義盛が当荘地頭に任じられていたが,後白河上皇の要求によって頼朝は義盛の地頭職を停止したのである。正治3年2月11日の某家政所下文(寛元寺文書/鎌遺1183)に「三潴庄内西牟田村」とあるのをはじめとして鎌倉期に当荘内として史料に見えるのは,酒見村・一木村・木室村・牟田口村・田口村・鬼空閑村・上小法村・下小法村・堺村・吉祥今村・白垣村・八院村・木佐木村・高三潴村・江上村・葦塚村・大依村・荒木村・白口村・安武村・夜明村・大石村・五郎丸村・藤吉村・荊津村・津福村・田脇村・浜武村・間村等の村々で,当荘は三潴郡全域に及んでいた事が知られる。正元元年12月26日の将軍家(宗尊親王)政所下文(河原文書/同前8454)に,「三潴庄内高三潴村」の地頭に横溝五郎法印生阿を任ずるとある。横溝氏は陸奥国糠部郡を本貫地とする東国御家人である。このほか荘内の地頭には白垣村内の白垣弥二郎宗平・白垣丹藤二入道西信後家尼念阿・白垣十郎氏明・高良権宮司実員女子虎石・井田二郎左衛門入道蓮信(田部文書/同前11683),弘安2年の田口村地頭田原泰広などが見え,西牟田村西牟田行西・八院村菅藤三入道唯仏・大隈村大隈右衛門佐・浜武村浜武教円・荊津村荊津教信など小地頭とも称された名主層御家人がいた。荘内には荘鎮守の高良玉垂宮・大善寺のほか西牟田村寛元寺・霊鷲寺,酒見村風浪神社・浄土寺・宝琳寺・摂取院,夜明村朝日寺などがあり,それらの寺社領も混在していた。鎌倉末期の文保元年当荘は領家と地頭との間で下地中分が行われている(浄土寺文書/三潴荘史料)。当荘は蒙古合戦恩賞地でもあった。肥前国御家人で松浦党の山代栄が八院菅藤三唯仏跡を与えられ,横溝資為が田脇村牛尾田孫太郎跡を孔子配分されており,さらに肥前国五島の白魚行覚が是友名田地屋敷を配分されている。この内山代栄に与えられた八院村および白魚行覚に与えられた是友名については在地領主であった白垣氏や荊津・住吉氏らとの間に支配を巡って争論が展開されている(以上,青方文書/纂集)。一方当荘領家職は永徳2年四条家から一族の鷲尾家に移り(東寺百合文書/三潴荘史料),延徳4年頃まで領家鷲尾家の名が見える。これより先四条隆資は五条頼元宛書状(五条文書/南北朝遺3071)において「三潴庄者,相伝之家領候,仍雖下遣雑掌如当時者,大略凶徒陣候歟」と述べ頼元の援助を願っている。この後戦国期にかけて当荘は筑後守護大友氏の家臣に与えられており荘の実態は失われていった。現在の久留米市東部から三潴町・城島町・大木町・大川市の全域を含み,さらに柳川市・筑後市の一部にまで及んでいた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7443481 |