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山門郡


天正15年の豊臣秀吉の九州仕置によって当郡が統一政権下に組み入れられ,秀吉は筑後国のうち4郡(山門・三潴・下妻・三池)を筑前粕屋郡の立花城にあって島津軍に最後まで抵抗した大友氏家臣立花宗茂に与え,当郡もその支配下に置かれた。入部後間もなくして始まった領内検地は,文禄4年には完成し,12月1日秀吉から所領安堵の朱印状を受けているが,その知行方目録(県史資料4)によると,当郡の所領高は4万5,022石余。宗茂は,小田原の役,文禄・慶長の役に参戦して活躍したが,関ケ原の戦で西軍に属したため慶長5年11月11日に改易となり,加藤清正の食客として一時肥後国玉名郡高瀬に居住し,その後畿内・江戸・陸奥棚倉などへ移った。同年3月代わって三河国岡崎より田中吉政が筑後国一円32万5,000石の領主として当郡柳川に入封し,当郡もその支配下に置かれた。吉政は城塁・櫓を固めて五層の天守閣を築くとともに,久留米・赤司・福島・榎津・城島・黒木と山門郡の高尾(城番宮川才兵衛,知行6,000石),松延(城番松野主馬,知行1万2,000石)の支城に一族・重臣を配置し,筑後の領国経営にあたった。筑後川・矢部川の流域改修,山門郡矢ケ部村から久留米に通じる直通道路(久留米柳川街道・田中道)の新設,大川から柳川・大和・三池郡渡瀬までの有明海沿岸32kmに及ぶ慶長本土居の築堤工事などを実施した。元和6年8月7日,2代藩主忠政が死去。世嗣断絶のため領地没収となるや,同年11月27日,陸奥棚倉から立花宗茂が,三潴・上妻・下妻・山門・三池5郡10万9,647石1斗9升7合の大名として柳川城に再封した。この時の目録によれば,当郡の領地は5万7,371石5斗4升4合,86か村である。「寛文朱印留」では一円が柳川藩領で86村・5万7,371石余,「元禄国絵図」91村・5万7,371石余,「元禄郷帳」86村・5万7,371石余,「天保郷帳」86村・6万6,010石余,「旧高旧領」では115村・7万7,948石余で,すべて柳川藩領。所属する村は,「天保郷帳」によると,蒲船津・正行・下百町・高畠・藤吉・今古賀・江曲・築籠・弥四郎・吉留・宮永・鬼童【おんどう】・端地・正段島・矢留・徳益・野田・四拾町・上塩塚・下塩塚・中島・島堀切・鷹尾・江崎・二町新開・下棚町・上棚町・垂見・瀬高下庄・大竹・北高柳・南高柳・津留・浜田・堀切・吉里・開・長島・下小川・井手上・真木・有留・大江・広安・宮園・金栗・上小川・堀池園・海津・大木・松延・北広田・藤尾・堤・朝日・大塚・草葉・本吉・川原内・在力・中尾・竹井・飯尾・飯江・立山・原町・佐野・中原・小萩・三峰・北関・真弓・磯鳥・中矢箇部・南矢箇部・柳河・枝光・瀬高上庄・中山・木元・吉開・新・五拾町・上久末・下久末・上百町の各村。宗茂は三潴郡の城島・酒見・蒲池,山門郡の今古賀(城番立花右衛門太夫)・鷹尾(城番立花三左衛門,知行1,000石)・松延(城番立花三郎右衛門,知行1,000石)の6支城に城番を配置した。領内の行政区分には村組制を採用した。町方は柳河本町組・柳河瀬高町組の2組と沖端両町に区分されて町別当(年行司)・組頭・町横目らの町役人が置かれた。在方は広域的な行政単位として大庄屋の管轄する組を置いたが,当郡には宮永組・垂見組・小川組・竹井組・蒲池組(一部)・本郷組(一部)があり,宮永組は東蒲船津・西蒲船津・正行・下百町・高畑・新町・藤吉・今古賀・江曲・築籠・猟町・新田・下宮永・上宮永・安良開・弥四郎・吉富・鬼童・端地・正段島・矢留・東開・西開の23か村,垂見組は南徳益・北徳益・野田・四拾町・上塩塚・下塩塚・南野・作出・皿垣・江島・明官開・南野開・皿垣開・中島・島堀切・鷹尾・古河・西津留・江崎・弐町新開・下棚町・中棚町・上棚町・白鳥・上垂見・下垂見の26か村,小川組は下庄町・大竹・北高柳・南高柳・東津留・北浜田・南浜田・堀切・吉里・開・長島・下小川・井手上・真木・有富・大江・泰仙寺・広安・宮園・金栗・上小川・堀池園・北梅津・南梅津の24か村,竹井組は大木・松延・北広田・藤尾・堤・朝日・大塚・草葉・本吉・河原内・在力・南広田・中尾・野町・竹井・飯尾・飯江・立山・原町・佐野・中原・小萩・三峰・北関・真弓の25か村,蒲池組の当郡分は磯鳥・中矢ケ部・南矢ケ部・柳河・枝光の5か村,本郷分の当郡分は上庄町・中山・木元・吉開・新・五拾町・上久末・下久末・東百町・西百町・上沖田・下沖田の12か村から構成されていた(旧柳河藩誌)。山門郡の人口(2歳以上)は,安永3年が3万9,789(うち男2万2,213・女1万7,576),文化7年が4万2,500,天保5年5万7,783,同11年5万1,446,弘化3年5万2,684,嘉永5年5万3,701,安政5年5万4,115,元治元年5万2,521。宗茂以降12代続いた歴代藩主のうち,主として当郡に関係する事項としては,2代立花忠茂の時の正保2年に矢部川改修工事が実施された。3代鑑虎の時の天和2年に佐野村甲塚山に牧場を開き,貞享年間に完成しており,種馬を奥州から求め,山を御牧山と称した。貞享4年野町に牛馬市場を開設。7代鑑通の時の明和7年中島(島堀切)に米蔵を新設した。藩の米蔵としては,ほかに三の丸蔵・田町蔵(城下),瀬高蔵(山門郡),大野島蔵(三潴郡),黒崎開蔵(三池郡)があった。遠見番所としては柳川津口番所・下塩塚村番所,津口番所は沖端・宮永新田・中島徳永番所,抜荷番所は沖端孫六・外町門・船津枝光口・瀬高門・浜口・藤吉仮橋・出橋門番所が郡内に置かれた。郡内を通る主要交通路は薩摩街道(瀬高―原町―南関と瀬高~江浦の2コース),柳川街道(柳川~大善寺),柳川瀬高街道,肥後街道(柳川―江浦―三池)などがあり,柳川城下の札の辻(現辻町)を基点に領内に一里石が設けられた。宿駅(馬継所)は,郡内では柳河(53疋)・瀬高上庄町(29疋)・下庄町(26疋)・原町(16疋)に置かれ,これらの宿馬町には庄屋にあたる別当がいた。在町には,ほかに沖端町・中島町・野町(市場町)・紺屋町(宿場町)・本吉本町(門前町)などがあった。河港としては,矢部川に中島港,鷹尾・津留・瀬高の港,矢部川水系沖端川に蒲船津散田・明王院隅・井手ノ橋下・沖端・孫六の港,同水系塩塚川には御仮橋・新田番所・流れ町などに船の繋留所があった(県史3‐中)。これらの河港は,有明海の潮の干満に水深が影響され,出入の船舶も小潮・大潮によって50石積~400石積の船と異同があった。当郡域には四通八達したクリークが縦横に走り,柳川独特の水郷景観を形成している。7世紀頃から始まった有明海沿岸の干拓は,近世初期の田中吉政による慶長本土居の築堤工事以降進展し,藩営・家臣請負・町人請負の海面地先干拓が有明海に向かって魚鱗状に展開され,由布開・勝兵衛開・次助開などとこの地域独特の開【ひらき】地名が今も残っている。明治4年7月14日廃藩置県により柳川藩は柳河県となり,柳川城内に布政所を置く。同年11月14日久留米・柳河・三池の3県を廃して三潴県を置き,山門郡を含む筑後一円10郡を統轄する。県庁を三潴郡若津町に設け,間もなく久留米両替町に移し,柳川本小路に支庁を置いて旧柳川・三池領内を管轄した。同8年6月,三潴県は県下を4大区69小区に分け,山門郡は第2大区に属し,大区中をさらに5小区に分割した。同9年2月7日,三潴県10郡を14大区に分ける。同年8月21日,三潴県を廃して福岡県に合併。このとき,大小区の制を改め,10月4日町村の合併を行い,大区を調所,小区を扱所とした。山門郡は第3調所となり,これを11扱所に分けた。同11年の当郡の耕宅地6,189町,戸数1万5,180・人口7万1,115(県史資料2)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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