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相知村(中世)


 鎌倉期~南北朝期に見える村名。松浦郡松浦荘西郷のうち。正慶元年11月29日付鎮西探題下知状によれば,鎮西探題北条英時は野世宗仙房と築地蓮喜との相論を裁定し,蓮喜に対して「肥前国松浦西郷相知村松元乃縄手乃上乃田地弐段二杖」を知行せしめている(峰文書/太宰府天満宮史料10)。この田地はもともと「西蓮重代相伝乃私領」であり,蓮喜が元亨2年に代銭6貫文で西蓮・同子息宗仙房から買得したものであったが,元徳元年以来宗仙房が押領したとして訴訟を行っていたものである。蓮喜は「肥前国松浦相知村築地孫四郎入道蓮喜」と見え,松浦党の一族の源勝が築地【つきじ】に居館を構えて土着し,相知築地勝と称して以来,相知氏を唱えたという。「有浦家文書」の伝える「相知村内面々相伝系図」によれば,相知氏は築地・梶山・中山・本山・向第一族庶流を分出,繁衍した様子が知られる(佐史集成19)。また相知の妙音寺は相知氏の菩提寺として蓮喜が創建したと伝える(松浦拾風土記)。元弘3年7月「松浦相知小二郎入道并子息孫太郎秀」は九州探題北条英時「誅伐之軍忠」をたて後醍醐天皇の綸旨を受け,翌建武元年3月21日,蓮賀は建武新政府から勲功の賞として筑後国下宇治村半分の地頭職に補されている。続いて建武2年11月22日後醍醐天皇は「足利尊氏,同直義已下輩,有反逆之企」りとして蓮賀に新政府に反旗を翻した尊氏以下を追討のために鎌倉に発向することを命じている(松浦文書/平戸松浦家資料)。新田義貞の軍に追われて九州へ下向した尊氏は,博多の多々良浜の戦に菊池氏らの南朝方を討って大勝し,再び上洛して北朝を擁立し京都に武家政権を樹立した。このとき,松浦党の一族は尊氏に与力して活躍したが,ただ相知一族のみは菊池方であったという(松浦拾風土記)。建武4年9月5日一色道猷地頭職宛行状によれば,「肥前国相智小太郎跡内相智田地陸町」以下地頭職が闕所とされ辻後藤入道浄金に「勲功之賞」として宛行われている(武雄鍋島家文書/佐史集成6)。この小太郎は観応元年10月19日足利尊氏下文に「松浦西郷相知村内小太郎直跡」とある相知直のことであろう。相知蓮賀・孫太郎秀は相知氏の庶流梶山氏でむしろ尊氏軍に従い上洛している(松浦文書/平戸松浦家資料)から南朝方に走った相知一族とはこの相知直らのことであったと思われる。建武5年4月20日松浦相知(梶山)蓮賀等連署書状によれば,九州探題一色道猷は書下を以って「一族中所務以下安富河副条々御沙汰事,被定於衆中,向後可有沙汰之由,当参一族被申候,御器量人之御出候,可有御沙汰候」と相知氏一族に命じたのに対して蓮賀以下5名は連署の請文を捧げ「自当村者,相知孫太郎秀可参候也,次於御一族一同御沙汰者,敢不可有異儀候,以此首可有御披露候」と相知(梶山)孫太郎秀を相知氏一族の代表に推輓している(同前)。これは勲功の賞として河副荘を松浦一族に配分することに伴ったもので,貞和2年11月26日付河副荘孔子配分注文案によれば,相知秀の名は見られず,配分漏れとなったものであろうか(有浦家文書/佐史集成19)。貞和元年11月24日付足利尊氏下文によって蓮賀に「松浦西郷相知次郎入道蓮証跡」が,観応元年10月19日足利尊氏下文によって秀に「松浦西郷相知村内小太郎直跡〈加庶子分定〉・同三郎入道蓮種跡・同左衛門五郎入道覚円跡・同弥十郎清跡地頭職」が勲功の賞として宛行われている(松浦文書/平戸松浦家資料)。この相知梶山蓮賀父子の居館は現在の相知公園一帯にあったといわれ,観応2年頃の作成と思われる。「相知村内面々相伝系図」(有浦文書)は梶山孫太郎秀が相知一族の内10人と相知村の給人5人を相手に訴訟を起こした際,同村の給人の1人斑島源二郎納が心覚えのために一覧表にしたものだといわれる(松浦党研究1)。その系図によれば,訴人に「梶山小次郎松鶴〈入道蓮賀〉・秀〈同孫太郎〉」とあり,論人には斑島源次郎・相知彦太郎・石田小二郎・相知(西)小太郎直の女子・田中八郎叶・黒岩彦五郎調・尻田八郎能澄(今者死去)・於保女坊・頼宗・八並弥十郎清などの名が見える。秀は観応3年3月武蔵国金井原合戦で戦死し子息太郎が幼稚の身ながら行賞を受けている(松浦文書/平戸松浦家文書)。観応3年3月18日付で蓮迎が「親父蓮性禅門の出離生死の大菩提を証し,蓮迎自身の二世悉地を祈願のため」と称して「松浦西郷相知村沢丈夫入道作畑之新開田地」などを妙音寺の住持湛然和尚に寄進している(妙音寺文書)。さきの相伝図によると蓮迎は相知蓮性の子で西四郎高にあたる。特にこの寄進状の裏書に「為後証加一揆連署封裏所也,観応三年卯月八日次第不同 おふちとの源省,かち山との源照,くすだの小二郎源披,きじまの入道沙弥円心,きし山の小二郎知,はたの又三郎源至,きじまの源蔵・源糺・源施,とくすへとの通高,中山との沙弥覚円」と,相知一族が保証のために一揆し,連署しているのは注目される。相知の名はこの後も,応安5年2月の「竜造寺文書」にも見られ,さらに永徳4年2月23日の著名な松浦党一揆契諾状にも「おうち 薩摩守広」の名が見えている(松浦山代家文書/佐史集成15)。なお,戦国末期には当地に馬場氏が来住,以後,当地は江戸期にわたって馬場村と称した。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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