神崎荘(中世)

平安後期~南北朝期に見える荘園名。神埼郡のうち。「御堂関白記」長和4年7月15日条に「神埼御庄司豊嶋方人参上」とあり,すでに「神埼御庄」とあることから,少なくとも長和4年以前に成立していたことがわかる。神崎荘は「続日本後記」承和3年10月27日条に「肥前国神埼郡空閑地六百九十町,為勅旨田」とあることから,この勅旨田を基盤として成立した皇室領荘園と考えられる。「平範国記」長元9年12月22日条に「次被下後院宣旨,先被奏渡文,殿下(藤原頼通)以余(平範国)所令奏給也,其状云,後一条院 奉渡御領所等事 神崎御庄 右,奉渡如件」とあり,神崎荘が皇室の後院領として伝領されている。特に院政の確立期には豪族の寄進が加わって荘域が拡大された可能性が強く,「百錬抄」大治2年5月26日条に「神崎庄献鯨珠一顆於院(白河法皇),仍令勘和漢之例」とあり,白河法皇に対して1顆の鯨珠(竜涎香)が貢上されている。その後,鳥羽院政への移行に伴って神崎荘も鳥羽院領として相伝されているが,瀬戸内海の海賊を討伐し,瀬戸内海・九州に勢力をもった平忠盛は鳥羽上皇の信任篤く,院御領の神崎荘預所としてその管理にあたっていたが,長承2年8月13日条の「長秋記」に「鎮西唐人船来着,府官等任例存問,随出和市物畢,其後備前守忠盛朝臣自成下文,号院宣宋人周新船,為神崎御庄領不可経問官之由,所下知也」と記すように,自ら鳥羽上皇の院宣と称して院庁の命令書を下し,大宰府の役人が宋船の来船について関与してはならないとしている。貿易の独占を計ったことは間違いない。脊振【せふり】村の鳥羽院は鳥羽院時代に荘域になったのかどうかは判然としないが神崎荘と無関係ではなかろう。「本台記」仁平3年12月8日条によれば,当荘が藤原信西(通憲)に預けられたことが知られるが未詳。平安期までに神埼郡に成立していたとみられる荘園は安楽寺領石動荘(東脊振村石動)と三津荘(東脊振村)で,それ以外の地域は神崎荘であった可能性が強い。源頼朝は,文治元年全国に守護・地頭設置の勅許を得るが,平氏との関係が深かった院領荘園神崎荘でも在地の武士たちが兵粮米徴収をめぐって自由押妨を続けており,後白河院庁ではそれら武士の非法狼藉,兵糧米徴収の停止を大宰権帥藤原経房を通じて幕府の北条時政に訴えさせた(吾妻鏡文治2年2月22日条)。幕府では天野遠景を鎮西に派遣して肥前神崎荘に兵糧米を課すことを禁止し,荘内の武士の濫妨を停止せしめた(幕府諸家系譜31/神崎荘史料)。文治2年5月24日後白河院庁下文(河上神社文書/神崎荘史料)によれば,⑴高木大夫宗家,窪田太郎高直らが,荘官・神人を殺害し,神崎荘の年貢物や雑物を押領したこと,⑵藤原幸直がその身は荘官でありながら鎮守社の春祭りの大使を勤めないこと,⑶竹野七郎兼俊が荘庁の建物や文書類を焼失せしめ濫行を行ったこと,⑷窪田太郎高直・南二郎秀家が海宿禰重実の所領を押し取ったこと,⑸高木宗家が河上社座主職を奪い取ったとして僧春勝をして河上座主職に還補せしめんとしたこと,⑹荘官・寄人が平家知行の時,免除されたとして荘役を対捍したため,その子孫を相尋ね荘役を勤仕せしめることなど,6か条にわたって在地武士の濫妨の具体的内容が知られる。高木宗家は,佐賀郡の高木村を本貫とする在地武士で,寿永2年11月には河上社へ大般若経の免田として3町を寄進しており(河上神社文書/佐史集成1),南二郎秀家は藤原季家とも称し,肥前国小津東郷内竜造寺村の地頭職に補任されている(文治2年8月9日付関東下文案/諫早家系事跡1)。海宿禰重実は三根郡坊所一帯に蟠踞した海部直【あまべのあたい】の子孫で,同上の関東下文案に季家と争っていたことが見えるが,その記事に「重実者,為平家方人,益企謀反,巳重科也,就中不入鎌倉殿見参之条,是則心中猶思平家逆徒事故歟,結構之旨甚以奇怪也」とあり,源平争乱期には平家の方人として活躍,平氏滅亡後も心中平家に心を寄せ,鎌倉殿の見参にも入らなかったとある。従って,この神崎荘への在地武士の乱暴事件も源平争乱の余波として起こった地方での抗争の1つであったと思われる。文治2年9月27日,関東下文をうけて海重実の所領肥前国小津東郷竜造寺村を押妨することをとめ,藤原季家(のちの竜造寺氏)をしてこれを領せしめる旨の大宰府庁下文が出されているが(竜造寺文書/佐史集成2),そこには天野遠景が大宰府官人と連署しており,鎮西奉行として九州へ下った天野遠景は鎮西奉行として大宰府の行政機構を掌握するとともに九州における鎌倉幕府の威光を確立することに努めていったと思われる。「幕府諸家系譜」にも天野遠景が「同(文治)二年有命赴肥前神崎庄,諭止軍士之濫行矣,其冬補鎮西九州守護職,住大宰府,後与宇都宮信房,伐貴海島,令帰降島民也」と見え,遠景の鎮西派遣の直接の契機が,神崎荘の在地武士の濫妨停止であったことは興味がある。その後,建久3年2月18日後白河上皇は所領を分給し,神崎荘は後院領豊原荘・与賀荘・福地荘などとともに公家の沙汰となった(玉葉集)。しかし,後院領神崎荘も承久乱後,幕府によって没収されることとなり,地頭職が新たに設置され,幕府草創期以来の功臣である三浦泰村が補佐されたらしい。ここに院領荘園として一円知行を維持してきた神崎荘に,はじめて地頭職が設けられたわけである。ところが宝治元年6月,鎌倉における宝治合戦によって三浦泰村は滅亡し,その所領所職はすべて没収される。「葉黄記」宝治元年8月18日条に「神崎庄承久補地頭,文略没収,纔進少年貢,今止地頭,一向可為地頭 院御領(後嵯峨上皇)云々」とあり,さらに同8月27日条には,「神崎庄,去年依為執事,土御門大納言(源顕定)可知行之由,被下御教書了,今止地頭一向可有庄務之時,二品(藤原能子)可拝領云々,前内府(源定通)鬱憤歟,尤有謂」と見え,神崎荘を大納言源顕定の知行に委ねる由の御教書が下されたのにもかかわらず,二品藤原能子に知行せしめようとしたため,前内府源定通が「鬱憤」したとあり,同日記の筆者で葉室定嗣も「尤有謂」と述べている。地頭職の停止後,神崎荘の知行は,文永9年正月15日後嵯峨上皇処分状案(伏見宮御記録)に同荘が上皇から後深草院領として譲渡されているから院領荘園のまま伝領されたことはまちがいない。しかし,宝治合戦後,地頭職が停廃され,公家の沙汰に帰したとは必ずしも明らかでない。むしろ闕所地として幕府にその潜在的な権利が留保されたと理解した方が,蒙古合戦の勲功賞の配分地に苦慮した鎌倉幕府が,神崎荘を絶好の配分地として多くの鎮西御家人に一分地頭職を分与したことをみても自然であろう。神崎荘は蒙古合戦恩賞の配分地として孔子配分が行われ,その配分者も数十人に及んだといわれる。正応5年の河上宮造営用途支配惣田数注文にも「院御領神崎庄三千丁」と見える程の広大な荘園であったが,勲功者への一分地頭職の配分によって細分化され,事実上の解体をみるに至った。例えば,神崎荘東郷吉田里の勲功恩賞地の田地3町2反を青方為平が米44石で15か年契約の本物返として吉田尼御前へ元応2年に預け置いた例(青方為平本物返沽却状案/青方文書)や嘉暦元年11月,肥後国御家人上嶋惟幸と同国上嶋郷地頭尼妙法・同子息義広が勲功地神崎荘内の田畠・屋敷を争って相論を引き起こしている例(阿蘇家文書)など,一分地頭職をめぐる紛糾が跡をたたなかった。かくて南北朝期以降,神崎荘の荘園としての実質的機能はほとんど失われていったと思われる。ところで同荘内には神崎荘の鎮守櫛田神社をはじめ高志神社・白角折【おしとり】神社・仁比山神社のほか,真言律宗寺院の妙法寺・東妙寺などの寺社が存在した。櫛田神社は永仁3年10月4日同社の御剣を異国征伐のため博多櫛田宮に送ったことが見え(千竈耀範・坂田宮内左衛門入道連署注進状写/櫛田神社文書),また,弘安年中の異国降伏祈願の官宣旨に「則彼庄(神崎荘)内為異国征伐,自古奉崇三所大神,所謂奇稲田姫・高志・□(白カ)角折神是也,仍致毎日三時之法味,奉廻向彼神明,所新請四海静謐異賊退散也,且自建立□始,寺社敷地以下之免田等,諸人寄進之刻,成目代預所免状畢」とあり(永仁6・7・14年官宣旨/東妙寺文書),荘内の三所大神を奉崇し,異国征伐の祈祷を勤める目的で田手の東妙寺が創立されたことがわかる。建武2年6月東妙・妙法両寺寺領坪付注文によれば,蒙古合戦の勲功恩賞地の田畠の多くがその後,東妙寺(現三田川町),妙法寺(現神埼町)に寄進され,社寺免田として両寺の寺領が集中していったことが推測される(東妙寺文書)。また,南北朝期には櫛田神社の門前に町場が形成され,機織・紺屋・酒屋などの手工業者や商人が集住してにぎわい,「市町山路等諸公事」が免除されていたことが知られる(足利直冬書下/櫛田神社文書)。また,最近,農業基盤整備事業によって国鉄三田川駅より南東約1.5kmの下中杖遺跡(現三田川町大字豆田字下中杖)の井戸から平安前期と推定される越州窯青磁や白磁,緑釉陶器の出土とともに青銅製箸や木製馬鞍などが発見され,「長秋記」の長承2年8月13日条の記事に見られる宋の貿易船の神崎荘来着を裏づける遺物の出土などから大陸との貿易ルートの存在を物語って興味がある(下中杖遺跡)。なお,「慶長国絵図」には「嘉崎郷」4,355石余が見えるが,当荘の遺名である。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7445050 |