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楠村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。松浦郡のうち。はじめ唐津【からつ】藩領,慶安元年幕府領,同2年唐津藩領,文化14年幕府領豊後国日田代官所支配地,天保2年唐津藩領預り地を経て,同13年からは再び日田代官所支配地。唐津藩領時は馬場組に所属。元和2年には田治見勘太郎の知行地があった(東松浦郡史)。村高は,元和2年検地高123石余,「正保国絵図」では96石余,「天保郷帳」「旧高旧領」では147石余。文化年間頃の田畑高129石余,古高86石余,畝数6町8反余,年貢率は7割1分3厘,家数28,人数128(男68・女60),馬数15,氏神大明神の祭礼は9月29日(松浦拾風土記)。家数・人数・牛馬数は,元禄4年18軒・87人・10匹,文化5年27軒・129人・15匹。庄屋は波多氏の旧重臣渡辺三左衛門が寺沢氏に任ぜられて以来永代(世襲)庄屋を勤めた。天保9年厳木一揆(五ケ山騒動)の指導者敬吾は当村の出身で,長崎の獄に投ぜられ,のち放免の帰途斬殺されたという(相知町史)。一揆には当村から25人が参加した。文政年間に幕府代官塩谷大四郎が巡見に訪れ,今では残り株が少しあるのみとなった楠の株を一見し,その見事さゆえに神木として祀るよう勧め,楠大明神の御神体として祭祀されたと伝える。この楠神社には享保5年の銘のある竜神と天照大神宮の石碑がある(相知町史)。神社はほかに稲荷神社・天満神社がある。明治4年厳原県・伊万里県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。この間,同11年東松浦郡に属す。「明治7年取調帳」「郷村区別帳」ではともに田頭村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」では1村として見える。明治3年櫨・漆・糀の運上が課されていた(中村文書)。同14年の戸数は,本籍32・社2,人数178(男87・女91),馬20,物産は米55石・櫨実4,000斤・楮皮500貫・竹5,000本,職業別戸数は農業29・工業3(東松浦郡村誌)。明治22年相知村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7445153