佐賀郡

「肥前国風土記」によると,嘉瀬川は古く「佐嘉川」と呼ばれており,その川上に交通妨害をする荒神がいて通行者を悩ましたという。そこで嘉瀬川流域の大和【やまと】町東山田・西山田付近に住んでいたと思われる大山田女【おおやまだめ】・狭山田女【さやまだめ】という土豪である巫女の進言で,山田よりさらに上流の下田(大和町下田)の村の土をもって人形【ひとがた】・馬形【うまがた】を作り荒神を祀ったところ妨害がなくなったという。その賢女から「佐嘉」の郡名がつけられたという。また一説には,郡の中心になる村にクスの大樹があり,朝日の影が西の杵島【きしま】郡蒲川山(江北町の蒲原山か大町町の聖岳)を覆い,夕日の影は養父【やぶ】郡の草横山(鳥栖市久千部山か)を覆ったという。そこで日本武尊がクスの栄える「栄国【さかのくに】」と名づけこれが改められて「佐嘉」となったというのである。この川上(大和町)には石神(世田姫)が祀られていた。「延喜式」神名帳にある与止日女神社に比定される。現在の河上神社である。この石神のところへ毎年,海神が小魚を従えてのぼってきて2,3日するとまた海へ帰ったと伝えている。海浜に住む部族が川をさかのぼって物資の交換のために往来したのかもしれない。「肥前国風土記」には「郷陸所」とあり,「和名抄」によると城埼【きさき】郷・巨勢【こせ】郷・深溝【ふかむそ】郷・小津【おづ】郷・山田郷・防所【ぼうじよ】郷があげられているが,防所郷は比定する地域がないが,三養基【みやき】郡上峰【かみみね】村には「坊所」の地名が残っている。城埼郷は遺称地として,嘉瀬川上流の佐賀郡大和町城崎【じようざき】という部落名があり,ここから東部の金立【きんりゆう】町・久保泉町地区にかけての地域が考えられ,巨勢郷は現在の佐賀市巨勢町を中心とする地域,深溝郷は,「河上神社文書」の記載などから兵庫町・高木瀬町一帯の地域に,小津郷も同文書中にある記載から与賀里(佐賀市与賀町)を含む地域で,深溝郷の南,巨勢郷の西にあたる地域に比定される。山田郷は城埼郷の西方,佐賀郡大和町の東山田・西山田の地域と思われる。したがって山田郷の南,深溝郷の西にもう1郷設定されそうであるが,防所郷をそれと比定できない。郷に含まれる19の里は明らかでない。荘園文書に出てくる里名は,ほとんど条里制に基づく里名であろう。「肥前国風土記」によると県主の祖「大荒田」などとあるところから,佐嘉県主の存在がうかがわれ,郡司に選任されたとも推定される。国府や郡衙(郡家)の所在地を推定する際の1つの有力な根拠となるものに印鑰社がある。佐賀郡には,大和町尼寺【にいじ】・佐賀市与賀町・佐賀市鍋島町新庄の3か所に印鑰社があり,大和町尼寺のものは肥前国府に関する社と考えられるが,他の2社については佐嘉郡家との関連で検討すべきであると考えられている。「日本霊異記」にある,宝亀7,8年ごろの「肥前国佐賀郡大領正七位上佐賀君児公【さかのきみこきみ】」は佐嘉郡司の存在を裏付けている。条里制については,「河上神社文書」安元2年・建久8年・文保2年の各文書によると,郡の東部から,三条(高生里35坪,与賀里9坪・14坪・33坪・35坪,由比里11坪),六条(淵里28坪・29坪・34坪,荻原里27坪),七条(曽禰里8坪・12坪・25坪,木原里17坪),八条(庚太田里1坪・11坪),九条(石占里27坪,千折里6坪,太田里10坪,壬太田里11坪・16坪・17坪,下久自良里11坪),十一条(高市里3坪,甲高市里3坪,牧里里9坪・11坪・13坪・14坪・18坪・19坪・24坪・25坪・30坪),十三条(新居里11坪・14坪,大楊里18坪・21坪・32坪,荒墓里26坪,癸野依里33坪),十四条(癸野依里36坪,池尻里3坪,井辺里27坪・28坪・29坪,河崎里6坪・7坪,加礼里13坪,南里,北里)などの里名と坪名が検出される。なお三条は小津東郷および小津郷に,六条は城崎西郷に,七条から九条までは深溝南郷に,十一条から十四条までは山田東郷に,それぞれ属している。これらの郷の位置は,前に述べた郷の位置と多少のずれがある。また以上のほかにも,条名が明らかでない里として,乙太西里19坪・乙佐布里1坪・乙太田里19坪・古河里3坪などが検出される。「肥前国風土記」「延喜式」兵部省にある佐嘉駅は国府所在比定地の佐賀郡大和町尼寺付近にあったと考えられ,駅馬5匹が置かれていた。寺1所についても国分僧寺があり,遅れて建てられた国分尼寺とともにその遺構がある。また大和町川上大願寺には,大願寺廃寺跡が残る。この大願寺については,千葉県成田市成田山史料館所蔵の銅鐘銘文にある宝亀5年ごろの「肥前国佐嘉郡椅寺」が,これであろうと推定される。この銅鐘の移動については小城郡地方の中世における千葉氏と関東千葉氏との関係を思わせる。河上神社(大和町)の祭神は予等比咩【よどひめ】神で,「肥前国風土記」にある石神世田姫【よたひめ】である。「延喜式」神名帳にある郡内唯一の小社であった。平安前期においては,肥前国内での名神大社は東松浦郡加部島【かべしま】の田島神社であったが,12世紀後半になると,河上神社が肥前国の一の宮と崇められるようになる。対外通交の消極化によるものであろう。郡内の式外社で国史見在社には,金立神と甘南備【かんなび】神があり,「三代実録」によれば,金立神社は,貞観2年と元慶8年に昇叙されて従五位上までなり,甘奈比(甘南備)神社(大和町)は,貞観12年新羅の来寇に備えて祈願のため大中臣国雄が派遣され,宇佐八幡宮・香椎廟・宗像大神とともに奉幣を受けている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7445368 |





