佐賀郡

江戸期は佐賀藩領で,とくに佐賀本藩の蔵入地(直轄地)が占める割合が多い。中央部に佐賀城とその城下町が置かれた。「慶長国絵図」では田方6,795町余・畑方1,441町余・高9万700石余(うち寺社領1,539石余),物成6万8,915石余,ほかに小物成438石余。「寛文朱印留」では172か村・高10万2,779石余。「元禄国絵図」でも高10万2,779石余。「天保郷帳」では172か村・高11万5,290石余。「旧高旧領」では98か村(うち佐賀城下22町)・高9万5,677石余,うち佐賀本藩領92か村・高9万1,158石余,小城藩領4か村・3,954石余,蓮池藩領2か村・高564石余。天明7年の記録によれば,10万2,779石余のうち87.3%は佐賀本藩の蔵入地で,全蔵入地の54%にあたる。藩全体の年貢率が67.2%であるのに対し,当郡のそれは76.5%と極めて高率である。「宝暦郷村帳」によれば,当郡は山内・上佐賀上郷・上佐賀下郷・中佐賀郷・古瀬郷・川副東【かわそえひがし】郷(本郷)・川副上郷・川副下郷・与賀上郷・与賀下郷・嘉瀬郷・新庄郷・太俣郷・佐保川島郷の14郷に分けられ,村数261か村・小村数269か村・寺数558(天台宗31・曹洞宗146・浄土宗55・禅宗1・真言宗59・臨済宗151・法華宗43・一向宗72)。各郷には享和元年に廃止されるまで大庄屋が置かれて郷内のすべてを支配した。大庄屋は郡代・代官の下にあり,各村の小庄屋を統轄していた。寛政12年には地方支配を強化するため,上佐賀に在住代官を配置し,現在の大和町駄市河原に代官所を設けたといわれている。大庄屋は郷中の小庄屋が相談して候補者を選び本藩が承認することで決まり,世襲制ではなかったが,特定の家に固定したようである。大庄屋は苗字帯刀が許され,大庄屋給は切米と点役米で地米(年貢高)1万石の郷を支配している場合,約45石であった。治水工事に功績をあげた成富茂安は父の代からの土木技術者で,特に当郡の石井樋【いしいび】の工事はその代表的な仕事である。嘉瀬川からの分流である多布施【たふせ】川の源に作った施設で,これにより嘉瀬川の洪水防止,川上から佐賀城下への舟運,多布施川下流の旱魃防止,佐賀城下への飲料水供給など,大きな恩恵を与えた。他にも横落水道,市ノ江川水系・新川および佐賀江川などの整備があげられる。また「泰国院様御年譜地取」によると,天明3年から文化元年までに川副犬井道地方の干拓事業が積極的に行われたことがわかる。貞享4年の郷村帳によると,人口は男6万6,684人・女3万8,137人の計10万4,821人で,各郡の最高であり,佐賀藩全体の32%弱が在住していた。また居住地域別内訳は郷村7万3,361人(男4万6,499人・女2万6,872人),諸町1万7,999人(男1万1,275人・女6,724人),御城下1万3,451人(男8,910人・女4,541人)となっている。幕末の安政5年三重村の三重津(現佐賀郡諸富町)に佐賀藩の御船手稽古所が設けられ,洋船運用の教育を行い,文久元年には造船所も設置して慶応元年には蒸気船凌風丸を完成した。明治4年佐賀県・小城県・蓮池県,同年伊万里【いまり】県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て同16年佐賀県に所属。明治4年の大区小区制では,佐賀郡は第6大区から第14大区までに含まれ,明治7年には第7大区から第16大区までと,第20大区の11大区に分類されている。さらに翌8年には,第1大区が佐賀郡一円と小城郡のうち4か村を含むとされ,明治9年4月,三潴県へ合併されると,佐賀郡は第17大区となり,さらに同年8月,長崎県に合併されると第40大区となった。この間に近世の172か村は統合されて,明治7年6月には77か村,6か津となる(明治7年取調帳)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7445370 |





