中島村(近世)

江戸期~明治22年の村名。松浦郡のうち。はじめ唐津【からつ】藩領,慶安元年幕府領,同2年唐津藩領,文化14年幕府領豊後国日田【ひた】代官所支配地,文政3年唐津藩預り地を経て,天保13年からは日田代官所支配地。唐津藩領時は厳木組に属す。村高は「正保国絵図」では326石余,元和検地では469石余,元禄4年「唐津鑑」では579石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに590石余。藩政初期に藩境の番所の警備のために10人の郷足軽が配置され,5反分の年貢を免除された。鉄砲を支給されたので,彼らの住んでいた区域を鉄砲町と称するようになった。明和8年の虹の松原一揆には佐賀藩側では中島村境の笹原峠に出兵して警備にあたった。文化年間頃の田畑高579石余(古高351石余),畝数15町余,年貢率は7割3分,家数52・人数263(男142・女121),馬24,威鉄砲1,氏神若宮社の祭礼は9月29日(松浦拾風土記)。他に寺社は,真宗大谷派無量山真伝寺・彦山神社・妙見神社。文政2年の年貢高324石余。同年当村は庄屋・名頭各1名,篠原村は名頭1名のみで庄屋兼任と理解できる(浦川内村庄屋史料)。天保9~10年の松浦幕領一揆では,当村も積極的に参加し,とくに藩境なので佐賀藩多久【たく】領への逃散の動きもあった。当村内の鉄砲町の郷足軽は一揆を押さえる職掌で情報収集を行っていたため村内での対立も大きくなった。庄屋が闕所・所払い,百姓からも多くの処分者を出している。万延元年に秀島鼓渓が開いた五惇堂では,当村から庄屋真名子嘉左衛門正義・庄屋代真名子左和大正芳・郷足軽原勝太郎正利らが学んでいる。明治4年厳原【いずはら】県・伊万里【いまり】県,同5年佐賀県,同9年三潴【みずま】県・長崎県を経て,同16年佐賀県に所属。「明治7年取調帳」「郷村区別帳」ともに広瀬村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によれば,戸数81・人口398。明治元年は,田16町(うち二毛作田9町6反),畝数畑4町余,家数62,人口286(男149・女134,篠原村分を含む),馬17。維新期の動揺の中で,当村や隣村の広瀬村では隣藩の佐賀藩支配を希望する動きもあった。同6年には家数83・人口375。同8年,中島小学校が開校。校区は中島・浦川内・広瀬・牧瀬・厳木・瀬戸木場の各村で就学者は男87人・女26人であった(公立学校明細書)。地租改正にともない,同13年7月旧庄屋真名子敬七郎上告による被告相島林吉外71名の村民に対する大審院判決は,旧庄屋地が村民の共有地である証拠がないとし,旧庄屋の私有地とした。同16年の生産高は米55石,楮4,580斤,田34町余・畑15町余・山林54町余・秣場33町余。同19年の家数78・人口417,うち農家は74軒。明治11年東松浦郡に属し,同22年厳木村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7446078 |