名護屋(近代)

明治22年~現在の大字名。はじめ名護屋村,昭和31年からは鎮西町の大字。大正4年の戸数411・人口2,287,うち漁家数340,漁船350隻・漁獲高約8万円,ほか水産加工で約5万円の収益をあげていた。名護屋は国・県有林はなく,村・私有林で,樹種はマツが多く,戦時中の乱伐と戦後の松喰虫の被害で大打撃を受けた。農業に関しては市場の変動により消長が著しい。牛馬の飼育も盛んであったが,昭和30年代から養豚・養鶏が盛んになり,大正末~昭和初期に盛んであった養蚕は現在廃れている。ミカン栽培も行われるが頭打ち状態である。テッポウユリの栽培は大正12年頃から始まって昭和16年まで盛んであったが,戦争により輸出がとまり,戦後復活したが,好不況の波が大きい。その他ニンニク・葉タバコが栽培されている。同47年の名護屋の船数は,浦の持船が89隻(動力船80隻・総屯数1,939t,無動力船9隻・8t),岡分の持船が16隻(動力船15隻・総屯数25t,無動力船1隻・1t)である。名護屋港は第2種漁港である。漁業中心の浜と農業中心の岡とは,肥料に使用する海藻の採取権をめぐり対立したこともあったが,大正9年名古屋岡漁協ができて対立もなくなった。旧暦7月15日には若者を中心に数十人で「盆綱ねり」が行われる。これは直径80cm・重さ8tの綱を,大漁と家内安全を願って集落中をひき回すものである。昭和47年一部が鎮西町野元となる。同56年の世帯数・人口は,岡分(鬼木・野元・元組・茜屋町・畑ケ中・沙子・麦原・先部)349世帯・1,472人(男694・女778),浜分(浦方・殿山・先方・古里・中町・海士町)405世帯・1,536人(男771・女819)で,合計754世帯・3,008人である。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7446162 |