仁比山村(近世)

江戸期の村名。神埼【かんざき】郡のうち。佐賀本藩領。上西郷に属す。小村に竹原ケ里がある(御領中郷村帳)。寺領と知行地。仁比山護国寺水上坊不動院地米38石余(寺社領記)。仁比山吉祥院御蔵米30石。給人・地米高は「玄梁院様配分帳」では竹原ケ里に鍋島庄兵衛79石余・鍋島主水1斗余。村高は「正保国絵図」「天明村々目録」では181石余,「天保郷帳」では207石余。「旧高旧領」には見えず。天保期の戸数32(御祓配帳)。嘉永3年には24軒が焼失する火事があった(櫛田宮記録)。当村の用水は城原川の大井手【うういで】堰を利用。同堰は,横落水路を築くため一の井手(通称あらこう)で堰止められた旧流域のためにつくられた堰で,不動院座主筭海法印が彫った「八大竜王」の巨岩がある。この刻面をタワシで洗いこすると雨を呼ぶと言い伝えられている。城原川沿いに一番ケ瀬村,中屋敷を経て筑前に通じる仁比山道があり,天神淵の道しるべ観音に「右山王みち 左ぼだいじ道 寛政十二年庚申一月吉日」とある。社寺に日吉山王宮(仁比山神社),下宮十禅師社,同社の別当天台宗仁比山護国寺がある。護国寺の本尊は千手観音。また往時は36坊あったというが,神仏分離で末寺地蔵院を残し,最後まで残った不動院・吉祥院も廃寺となる。なお日吉山王宮は天平5年の創建で承和11年の中興と伝え,申歳に限って大御田祭があり,4月の初申から二の申までの13日間民俗芸能御田舞が奉納される。参道脇に蘭医伊東玄朴の生家がある。彼は天保14年藩主直正に牛痘接種を進言実施,安政5年将軍家定の侍医となり,元治元年には医学所取締となった。「明治7年取調帳」「郷村区別帳」とも的【ゆくわ】村の枝村と見える。「明治11年戸口帳」には的村のうちに「仁比山村」と見え,戸数41・人口186。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7446205 |