肥前国

「肥前国風土記」によれば,肥前国は11郡・70郷・187里からなり,駅【うまや】18所・烽【とぶひ】20所・城1所・僧寺2所であった。郡は基肄【きい】・養父【やぶ】・三根【みね】・神埼【かんざき】・佐嘉・小城【おぎ】・松浦【まつら】・杵島【きしま】・藤津・彼杵・高来があった。国府は,現佐賀県佐賀郡大和【やまと】町久池井【くちい】付近にあったといわれ,国分寺址や尼寺・惣座(惣社)・印鑰社などの地名・神社が今に伝えられ,昭和56年春に九州横断道建設に伴う発掘調査が惣座の一部で行われ国府・遺跡の確認が行われた。「延喜式」によると,肥前国は遠国であり上国とされているが,天平宝字元年に中国から上国に昇格している(続日本紀)。肥前守の補任は,天平勝宝6歳4月5日,従五位下黄文連水分を初見とする場合と,天平勝宝2歳の吉備真備とする場合とある(続日本紀)。「弘仁式」「延喜式」ともに肥前国の正税20万束・公廨【くがい】20万束・府官公廨15万束などとなっている。他の雑稲は,次第に加徴される傾向にあった。「延喜式」によれば,調として綿紬【わたのつむぎ】18疋・貲布【さよみ】26端・御取鰒【みとりあわび】364斤・短鰒534斤・長鰒24斤・羽割【はわり】鰒24斤・熬海鼠【いりこ】301斤14両・塩45斛,ほかに絹・糸・綿・蓆【むしろ】・薄鰒などを貢進し,庸としては,綿・米・薄鰒など,さらに中男作物として,斐皮【ひかわ】・葉薦【はこも】・苫【とま】・防壁【たつこも】・韓薦【からこも】・蒲薦・折薦・簀【す】・閇弥【へみ】油・荏油・鮨鰒・腸漬鰒などが挙げられている。これらは,この地方の特産物であったと考えられるが,「肥前国風土記」にも,松浦郡逢鹿【おうか】駅の条に,蚫【あわび】・螺【にし】・鯛・海藻【め】・海松【みる】,登望【とも】駅の条に,蚫・螺・鯛・雑魚【くさぐさのうお】・海藻・海松,大家【おおや】島の条に,蚫・螺・鯛・雑魚・海藻・海松などが近海で獲れると記している。また値嘉【ちか】郷(五島列島)でも同様の水産物が獲れ,さらに檳榔【あじまさ】・木蘭【もくらん】・枝子【くちなし】・木蓮子【いたび】・黒葛【つづら】・
【なよたけ】・篠【しぬ】・木綿【ゆう】・荷【はちす】・
【ひゆ】などを産すると伝える。この国が特に海の幸に恵まれていたようすがうかがえる。また平城宮跡から出土した木簡によっても国内の神埼郡・藤津郡から調綿を貢進したことが知られる。条里制の遺構は東部の佐賀・白石【しろいし】平野,大村扇状地(郡川河谷)などに残り,他にも松浦川・伊万里川・有田川の下流域にも認められる。「和名抄」には,肥前国の田数を1万3,900余町としているが,建久8年7月の肥前国太田文(曽根崎家文書)では,1万4,332町となっている。こののち,正応5年8月16日河上宮造営用途支配惣田数注文(河上神社文書)によると,1万3,470町2丈となっており増減がある。古代の官道を「肥前国風土記」の駅によってたどると,東端の基肄(基山町木山口)から切山(上峰村切通か中原町東寒水)・佐嘉・高来【たく】(多久市)と背振山地の南麓を西へすすみ,高来から北へ磐氷【いわひ】(唐津市石志)・賀周【かす】(唐津市見借)・逢鹿(唐津市相賀)・登望【とも】(呼子町友地区)までのびる。他方では高来から南下して杵島(武雄市付近)・塩田(塩田町付近)・新北【にきた】(彼杵)・船越(長崎県諫早【いさはや】市船越町付近)・山田(愛野町山田付近)・野鳥(長崎県島原市付近)と続いて,海を渡り肥後国へ通じていたと推定される。烽は松浦地方では鏡山,南部は多良岳で集約され,小城郡両子【ふたご】山に送られ,東方に知らせて基肄城から太宰府へと連絡するルートであったと思われる。肥前国は大宰府管下にあったことはいうまでもない。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7446468 |





